アルパイン株式会社
大脇 達生

1.「聴能形成」とは

「音に関する感性の教育・訓練を体系化した方法で実施し、聴能の基礎を正しく能率よく身につけられるようにする」ための教育方法で、北西ドイツ音楽アカデミーTonemeister教育課程Gehorbildungを参考に、昭和43年(1968)九州芸術工科大学(現九州大学)創設時に始まりました。

現在は、九州大学芸術工学部音響設計学科をはじめとして、東京芸術大学、東京情報大学、海外ではフレデリックショパン音楽大学(ワルシャワ)など世界中の教育機関で実施されています。企業では弊社の他、YAMAHA、フォスター電機、現代Mobis、Harman等でも実施されていると聞きます。

2.アルパインにおける音感訓練の歴史

アルパインでは「音感訓練」と称して1995年から「聴能形成」を取り込んだ社内教育を実施しています。1993年に当時の日東紡音響エンジニアリング様より「真耳」を導入し、教育としての試験運用・周辺整備を経て技術部門を対象に開始しました。その後、約10年毎に設備更新を行い現在の「真耳」は3代目になります。 音感訓練は初級/ 中級とクラス分けをして実施しており、2017年12月時点ののべ教育受講者/ 認定者数は、
初級: 受講 546名  認定 466名
中級: 受講 136名  認定 84名
となっています(教育内容と認定については後述します)。

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図1 初級受講者/認定者数

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図2 中級受講者/ 認定者数

3.訓練内容と運用の工夫

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図3 音スキルのレベル

アルパインが考える社員の音スキルを図3に示します。聴能形成の狙いは、物理特性と聴感の整合(図3赤枠部分)ですが、社員教育とした場合は聴能形成だけでは不十分と考えています。

そこで音への興味喚起、音質評価の姿勢・心構え(集中力)をはじめとして、音質評価の基本(音楽の中から楽器や音の特徴を抽出し表現)等を含めて教育する内容にしています。

1)教育訓練専用試聴室の設置

まず専用試聴室とする事により、安定した教育を継続実施できる環境としています。思い起こせばこの試聴室も日東紡音響エンジニアリング様に施工いただいたものです。

現在「真耳」を使っての聴能形成回答端末は各自に支給されている業務用PCを使用し、無線LANでホストPCと通信し即座に正答誤答、正答率が分る様になっています。

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図4 訓練専用試聴室

2)クラス分けと各クラスの狙い

受講者は様々な音経験を持っています。音への興味が殆どなかった人、オーディオ好き、クルマ好き、音楽が好きで楽器を楽しむ人などです。しかし音や音楽が好きと言ってもその音質を的確に表現する教育を受けている人は殆どいません。そこで最初は全員に「初級」を受講して貰い初級認定を取得しレベルアップを目指す社員に対して「中級」で難易度や幅を広げた内容の教育を行っています。

初級: 音への興味喚起、基礎的な音の聴き比べ修得、中級への挑戦資格取得

中級: 実務に踏み込んだ音造り・音質評価と音コミュニケーション力Up、社内音質評価者登用基準取得

3)コンテンツの工夫

表1に教育項目一覧と開催内容、各クラスの認定基準を示します。

聴能形成としては、一般的な「正弦波周波数判断」「バンドパスノイズ中心周波数判断」といった絶対判断や「音楽大小」「音楽の山付け(谷付け」「音楽のハイパスフィルタカットオフ周波数判断」などの周波数特性を変化させた一対比較に加え、アルパインで独自に開発した中域の位相シフト有無を判定する「位相判断(一対比較)」等があります。

初級の初回には、聴覚心理学の基礎や楽器音の基礎知識、何故この訓練を実施するのか? 音質評価の実際と注意点といった内容で座学を行います。中級では座学はなく実際の機材や音源を使った実習となっています。

聴能形成が初めての受講生の中には「聴き分けるために音を聴く」事に慣れていない者もいます。疲労を考慮し各項目は凡そ10分~15分、1日3~4項目までとしています。音楽を使った訓練では1曲10~20秒、テスト音は1~2秒と比較的短めでインターバルを含めテンポよく提示し回答させる様にしています。

各項目の実施後には、講師からだけでなく、受講者同士で聞き所や変化の感じを教えあったりする様に仕向け、受講者の「気付き」を促進する様にしています。この「他人に伝える」「他人のコメントを理解する」という行為も良い訓練になります。どう表現したら伝わるか? どれだけ自分の言う/ 相手の言う事が伝わっているかを知り、お互い工夫する様になるからです。この中で「音には、周波数的側面と時間的側面があり、両方に対する感覚を駆使して音を判断する事が必要」とも教えています。前出の「位相シフト判断」は周波数特性こそ変化してはいませんが、中域の位相がずれる事で時間波形が変化しています。従って漫然と周波数バランスだけを聴いていると判断できない項目です

各クラスの難易度設定にも工夫があります。各自各項目正答率80%を合格の目安としていますが、この80%で合格というのは受講者にとって絶妙な難易度です。ちょっと頑張ればできるラインであり、自信を持って答えられていれば80%以上は達成できます。結果として合格した時の達成感が得られます。その為に講師の側からは、最初は選択肢を減らした簡単な内容で実施し、その後選択肢を増やして徐々に慣らしていく等の工夫もあります

数年毎に、内容や音源を更新してタイムリーな内容にすることも必要な工夫と言えるでしょう。

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初級では聴能形成とは別に聞こえに関する様々な聴体験を通して音への興味を喚起するような項目があります。具体的にはバイノーラル試聴、両耳ビート、遅延聴覚フィードバック (DAF)等です。これら音体験は受講者が特に楽しんでいる様です。

以上の様に受講者にとって挑戦し甲斐があり、楽しみながら音に興味を持ち、気づきの中からスキルアップ、モチベーションUpできる内容としているのです。

4)運用体制の工夫

実務で活躍している先輩が講師をした方が現場の話も聴けて受講者も前向きになり、教育としての成果が上がります。ただ先輩社員は忙しく長期間拘束する事は難しいのが現状です。また規定に基づいた社内教育は事務処理等多くのタスクもこなさなければなりません。そこでこれらのタスクを事務局、オペレーターと作業を分担して運用し、講師の負担を軽減し、定期開催の徹底と教育内容の充実を図っています。また訓練項目や提示方法等については、毎回訓練終了後に受講者からアンケートを取ると共に、講師とオペレーターが反省会を行い次回への修正点を確認しています。さらに中級合格者に対しては、数年後実際にどの程度業務に生かされているのかを調査し、訓練が一層実業務の中で有効となるような要望を吸い上げる様にしてい ます。

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図5 体制図

4.教育の成果

図6に初級と中級編講習終了後に実施したアンケート結果を示します。

初級では「仕事上役立つ」と回答した受講者は約半数しかありません。内容が正弦波周波数判断、音量大小といった初歩的なものである事や、受講者自身も幅広い対象となる為仕方がない部分です。ところが中級になると「仕事上役に立つ」が72%まで上昇します。教育の内容がより実戦的になっている証です。

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図6 アンケート集計結果(終了直後)

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図7 アンケート集計結果(2年経過後)

一般的に研修直後のアンケートはポジティブな回答が多いものです。

そこで中級認定後2 年以上経過した受講者に対して実施したアンケートの集計結果を図7 に示します。

中級認定後2年以上経過した受講者に実施した追跡アンケートの結果でも「仕事上役にたった」「音の捉え方が分った」といったポジティブな意見が75% と高い数値で継続しており、この教育が非常に有効である事が分ります。

この回答者に具体的にどの様に役に立ったか? という質問を行ったところ「音に対する聴き方、捉え方が変わるきっかけを掴めた」「音を聞き分ける技術を習得出来た。音への意識と モチベーションの向上が一番のプラス。業務内・外においても、意識して自分が好きな音を探せる様になった」「ラジオの実走試験で音質の変化を言語化する時に役立った」「圧縮音源の音がわかったことによって、ソフトウェア要因のノイズがわかり不具合発生時の原因特定がスムーズになった」といった声が多数寄せられました。

さらには「自分のスキルとして得た充実感と上司等へのアピールができた」ことで「行きたかった音関係の部門へ異動のきっかけになった」とのコメントもありました。

講師側から見ても、様々な部門のメンバーと教育現場で音について話し合ったり、メンバー同士でも同様に話をして他部門交流を持つことができたと考えています。

以上、成果を纏めると社員からの視点としては、

①「音スキル修得・向上」だけでなく、自信とモチベーションがUpした。

②新たな音経験による音への興味が出た。

③受講者同士や講師間との連携(社内人脈)が強まった。

会社からの視点としては、

①「音質が大切である」というメッセージを社員に伝える事ができた。

②社員の基礎的な音スキル客観評価・ボトムアップとともに、次世代音質( 音造り) をリードする人材が効率よく発掘出来た。

③この教育設備自体が来客者見学ツアーの目玉である事やWebやTVメディアへの露出による顧客・市場へのアピールもできた。

と言えます。

この様に社員だけでなく会社から見ても有効な教育である事が20年以上つづけられた理由ではないでしょうか。

一部他社でこのような「聴能形成」を活用した教育が実施されたものの立消えになったとの噂を耳にします。聴能形成を実施するだけでは、受講者の要望に応える事ができないだけでなく、会社から見ても有効な教育となっていないからではないでしょうか。

5.今後の課題について

今後の課題の前に、この様な音の集合教育に対する考え方を述べたいと思います。

世の中には、私たちが実施している教育とは別に、PCを使い聴能を鍛えるアプリが存在します。個人でスキルを向上させる事を否定はしませんが、たとえ個人で驚異的な判断のできる耳を修得できたとしても、その人ひとりでは製品を作り上げる事は出来ません。私どもの製品は企画・設計・製造・販売と全てのステップで共通の音評価・判断を持って開発する、すなわち製品の核となる「音」に対して互いに共通認識を持つことが重要と考えているので、音のコミュニケーションをとる事ができる様、集合教育を実施しているのです。

課題1)長期視点で見ると音への感受性は全体的に低下傾向にあることは否定できません。生の音や、良いオーディオに触れる機会の減少、スマートフォン等の携帯音楽、圧縮音源の氾濫が原因なのでしょうか。事実、圧縮音源判断を始めた頃は殆どの受講者が判別できたのですが、ここ数年は講師が懇切丁寧に聴きどころをレクチャーしなければ合格できない受講者が増えています。

講師としては、一生懸命参加努力している受講者には何とか合格させてあげたいと言う心理が働きますが、安易に問題を簡単にする事は真の教育とは言えません。その分講師からの気づきやアドバイスの重要性が増してきていると考えています。

課題2)もうひとつの課題は次世代教育推進者の育成です。現状のカリキュラムであれば講師を行う事ができるメンバーは獲得できました。しかし長く継続していくうちに当初の核となる想いや狙いがずれていったりします。また今後の大幅なメディアの変遷や新たな音響に追従して行くためには、教育も常に変化していく必要があります。システムを含めた改革を中心になって取り組んでいく次世代の人材が必要です。その人材には、聴覚心理学をはじめとして、電気音響・楽器音響概要知識、音造りや評価の実務経験などの幅広い知見と共に、失敗を恐れずチャレンジする心意気を期待しています。

昨今、市場では圧縮音源が氾濫する一方で、Audioの原点回帰ともいえるアナログの復活や、Hi-Resといった高密度音響が出回ってきています。これだけでなく一見「物理特性と聴感を紐づける」という聴能形成の基本と矛盾する様ですが、「(現時点では)数値では測れない部品品質による音質違い」といった内容も盛り込んだ「上級クラス」実施へ取組みを始めています。

私たちが生産しているものはAudioであり、最後は人が聴いて楽しむものです。最終的に自らの耳で聴いて評価・判断をする事を忘れず日々取り組んでいきたいと考えています。

またシステムに関わる課題については、日本音響エンジニアリング様と連携を深めて推進していきたいと考えます。

この様な機会を提供いただきました、日本音響エンジニアリング 柳瀬様、森尾様に心より感謝いたします。

参考文献
1)「音の感性を育てる ―聴能形成の理論と実際―」音楽の友社 北村音壱、佐々木實監修、岩宮眞一郎、大橋心耳編
2)「 e- ラーニングを用いた音感トレーニングの試み」名古屋文 理大(池本祐佳、御家雄一、天野康平、伊藤英彦、吉田友敬)
3)「カーオーディオエンジニアに対する聴能形成の事例報告」音講論集2014

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