日本音響エンジニアリング株式会社 特別顧問
茂田 敏昭
ベクトルを合わせ経営再建
経営の建て直しにあたって、まず取り組んだのが社員のベクトル合わせである。 東京オリンピックの女子バレーボールチームが見事なチームワークで金メダルを勝ち取ったように、 アリの一穴もあけないチームワークを作り上げることが必要だと感じていたのだ。そこで20数名のスタッフを一堂に集め、こう宣言した。
「みんなに会社再建に全力で取り組む覚悟があるのなら船頭役になってもいい。ただし、泥舟の船頭になるつもりはない。」
会社が瀬戸際にあることは、全員が理解していたようだ。私の厳しい言葉にも反論は出なかった。 こうして再建への第一歩を踏み出した私は、組織体制の一新に乗り出す。一つが分割発注の徹底であり、もう一つが直請け体制の確立である。
日東紡績音響工事課に関与していた時代から今日まで、私が現場を担当した物件は一貫して分割発注を実践していたことはすでに述べたとおりだ。 そこで不明朗な取引の発生を防ぐため、私は代表者に就任すると同時に直接現場管理を行うとともに、協力会社は全て専門業者とみなし分割発注を徹底するよう指示を出した。
もちろん、その実施にあたってはいくつか問題が発生することも承知していた。 直接現場管理を行う人材が不足していることから、売上げのダウンが予測されたことと、 一括外注から分割外注に替えることによって協力会社の中には資金繰りに支障が生じる会社があるのではと懸念されたことだ。
協力会社の資金繰りに関しては、当分の間、手形繰りによって解消する支援策を打ち出し懸念を払拭。 それでも一括外注を主張した協力会社に対しては、改めて専門業者として業務内容の充実と職人の技能向上に努力して頂くようお願いした。
予測したとおり、売上げは多少ダウンすることになったが、分割発注の徹底と直接現場管理によってクレームが大幅に減少し、 利益率を大幅に改善することができた。
直請け体制の確立に注力
直接現場管理と分割発注で再建のきっかけをつかんだ当社であったが、それだけでは十分でなかった。 ニチオン時代には、エンドユーザーから直接要望を伺うことのできるリレーションが構築できていたが、 新会社になってすっかりゼネコン等の下請になっていた。このため、エンドユーザーに直接働きかけて情報を収集することができなくなっていたのである。
エンドユーザーに本当に満足して頂けるスタジオを施工するには、実際にスタジオを使うエンドユーザーの声を聴くことが非常に重要になることは、 これまで何度も述べてきたとおりだ。ところが、新会社になってそうした努力を全く怠ってきたのである。
これではニーズにあった音響工事ができないのも無理はない。そこで下請から脱却する方策として営業力を強化するとともに、 ゼネコンとの共存策として下請で仕事を行う場合、物件の音響性能に関しては発注者またはエンドユーザーと直接打ち合わさせて頂くことを条件とした。
この姿勢は、"音の仕立て屋"を目指した私の信念と言うべきものであった。そのため、相手がどんな大手であろうと、 またそのため仕事を失うことになっても死守する覚悟だった。
あるとき、古くから付き合いのあるスタジオから、「某ゼネコンにスタジオ工事を含む建物全体の改修工事をお願いしたので、 いずれ相談があると思うがその節はよろしく」との連絡が入った。このスタジオのエンジニアの方々とはお互いに気心がよく通じており、 よいスタジオを造るためには、これらの方々と直接意見を交換し、ご要望をお聞きできる立場で仕事をするほうがよいと思えたのである。 そこで、私は、そのゼネコンとエンドユーザーであるスタジオの担当者にその意図するところを説明し、何とかご理解を頂くことができたのである。
こうして第9期(79年9月~80年8月)には、直請け営業への転換を強力に推し進めるとともに、 全員経営参加、全員営業の第一次三ヵ年計画を作成した。
累損を解消し伸展期への基礎づくり
77年(昭和52年)の第二次オイルショック以降、日本経済は完全に低成長の時代を迎えていた。 そうした厳しい経済環境の中での会社再建となるだけに困難が予想されたが、努力は必ず報われるものと言える。
サウンド・シティ・スタジオや一口坂スタジオでユーザーから高い評価をいただいていた当社は、 先に取り上げたサウンド・イン・スタジオや日活の六本木スタジオ、アオイスタジオなど次々に放送、音楽関係の新規案件が舞い込む。 さらに、これまで手がけてきた物件からも、音響ハウスのコントロールルームや映像ハウスのメンテナンスといった仕事が発生する。
また、直請け営業など請負業界の従来の考え方を打破した新しい仕組みづくりを目指したことも業務拡大につながった。
というのも、音響工事は科学技術の発達によって発生した、まったく新しい仕事と言っても過言ではない。 そのため、アメリカにある「新しい酒は新しい革袋に入れよ」のことわざどおり、あらゆる産業が求める固有の音響性能を持つ試験室や作業室を造るには新しい仕組みが必要であり、 そこでは参加する業者すべてが平等で、互いに切磋琢磨しエンドユーザーと共存を図ることが理想だと考えるようになったのである。
もっと言えば、当社が力を発揮できるのは、エンドユーザーのニーズに合致する設計と、 意図する音響性能を持った部屋の施行における現場管理である。そこで、請負業界の元請が果たす役割はもっと簡素化して当社が代行。 材料や労務の提供といった具体的な施工は、専門業者を見つけることで、新しい領域を開拓できるということだ。
実際、78年には、ある自動車メーカーの案件で領域の拡大が実現する。エンジンの長時間運転に支障のない防音室を造るにあたって、 それまでなら躯体はもちろん空調設備や照明電気設備も別途工事するのが当たり前だった。ところが、 この案件では給排気音や照明器具の音鳴り(機器自体がノイズを発したり、音の影響で共振したりすることがある)等も専門的な立場で検討、 内装工事だけでなく空調設備や照明電気設備も含めてギャランティできないかとの依頼を受けた。
そこで、サウンド・シティ・スタジオや一口坂スタジオでも一緒に仕事をした経験がある設備工事業者と電気工事業者に相談。 共同事業体的な体制をとることで、ユーザーの要望に応えることができた。以来、こうした体制づくりは今日まで続いている。
こうして放送・音楽関係のスタジオを主軸に、業務領域の拡大にも取り組んだ当社は、急速に業績を回復する。 第10期(80年9月~81年8月)には、売上高が初めて10億円を突破するとともに、分割発注を徹底したことで経常利益も急進。 累損の解消に成功する。それは、スタッフが一丸となってつかんだ、まさに金メダルであった。
一方、累損の解消と並んで、次の時代への種まきにも取り組み始めたのがこの時代からである。 音響工学は日進月歩の技術であり、新しい技術を積極的に取り入れることも必要だと信じていたのだ。
例えば、2500万円もするコンピュータを導入したのも、そのためである。おそらく音響関係で一番早くコンピュータを導入したのは当社だろう。 人間の感覚自体はアナログの領域だが、そのアナログの領域に限りなく迫るツールとしてデジタル化は欠かせないと考えたのだ。 また、音響関係のソフトを最初に開発したHP(ヒューレットパッカード)とは、代理店契約を交わし、 仕切値でソフトを導入できる体制も整えたりもした。
いずれにしても、累損の解消に成功した当社は、ようやく新しい時代に向ける余裕が生まれたのである。
立体音響の開発で夢を実現
音ほどの情報の密度が濃いものはなく、そのデジタル処理技術はテクノロジーの最先端と言えるものだと確信もしていた。 そこで、NHK音響研究所や大学の研究室、メーカーの研究所といった研究機関と提携して、新しい音響技術の開発に着手したのである。
なかでも、早くから研究に取り組んでいたのがOSSである。OSSとはOrtho Stereophonic Systemの略で、 かいつまんで言えば立体音響のシステムのことである。当時、世界でも立体音響(サラウンド)に関する研究が始まっており、 当社もこの技術を確立することで、どこにいても演奏会場で音楽を楽しんでいるように聴くことができるシステムを開発したいと夢を抱いたのだ。
とはいえ、単独で開発に取り組めるほど当社に資金的な余裕はない。思案した末に考え付いたのが、 公的基金や企業系の振興財団の協力を取り付けることである。結果、開発した技術をオープンにすることを条件に、 NHK放送文化基金や鹿島、日産の振興財団から資金提供を受けることができた。
また、実際の研究を進めるにあたって白羽の矢を立てたのは、当時、東京電機大学工学部教授の三浦種敏先生である。 三浦先生は、電話における通話の明瞭度に主眼を置いた技術的な改良を皮切りに音響の世界に入り、オーディオの研究で数々の業績を上げられた方で、 まさに適任だった。確か、大阪大学で音響学会が開催された1976年頃だったと思うが、先生を有馬温泉にご招待して口説き落としたのを覚えている。
こうして開発をスタートしたOSSは、特許を取得。ローランドから特許の使用許可を求められたこともある。 しかし、確立した立体音響理論をメーカーの都合だけで商品化されると、誤った音楽情報をエンドユーザーに植え付けてしまうことが危惧された。 そこで、ローランドからの申し入れを断り、実用化に関しても当社で取り組むことにした。
実用化にあたって課題となったのは、演算速度の問題である。2チャンネルのスピーカーで源音場にいるのと同じように聴取できるようにするには、 出力時にも収録した信号をデジタル処理する必要があるが、音は情報密度が高いだけに膨大な演算が求められる。 そこで、特殊なDSP(デジタル・シグナル・プロセッサー)を開発、この問題をクリアした。
開発したシステムは、いろいろな人に試聴していただき評価してもらう必要があった。しかし、再生時にスピーカーの音が壁等に反射すると、 せっかくのデジタル処理が無駄になることから、91年、会社に新試聴室を開設、いろいろな方々に試聴していただいた。
中でも、ある音楽ホールのPAの方に、その音楽ホールで収録したソフトであることを隠して聴いていただいたとき、 それが自分の音楽ホールで収録したものであるとわかったときには、心の中で快哉を叫んだものだ。
こうして実用化に成功したOSSは、録音スタジオやコンサートホール等の合理的な音場設計や全周ステレオ方式の開発、 テレビ、映画、ゲームマシン等の音響効果システムなど、実に幅広い用途が考えられた。例えば、キャニオンでは、OSSのシステムを使って、 F1のブラジルグランプリのレースの模様を収録したCDを特盤として発売した。また、三浦先生のお弟子さんの手によって世界特許にまで発展したOSSの技術は、 着メロ用のサウンドシステムとして広く携帯電話にも採用されている。
ただ、実用化に成功したと言っても、残念ながら現状のシステムは完全なリアルタイムではない。 わずかだが、0.3秒音楽信号が遅れる。これだと普通の人にはわからなくても、聴き慣れている人にはわかってしまう。
リアルタイムにするには、もっと演算速度を上げる必要があるが、何せ電子はチップの中を秒速32万kmで駆け回る。 このため、これ以上演算速度を上げようとするとチップが熱で溶けてしまうのだ。チップが熱の影響を受けないセラミック等でできるようになれば、 この問題を解決できると思うが、それは今後の技術開発に期待したい。
新しい時代を切り開く技術開発
新しい技術開発へのチャレンジはOSSだけではなかった。例えば、MT(マイクロホン・トラバース)の開発も、 この頃からスタートした商品のひとつだ。
1980年代に入ると、機器の騒音発生パワーレベルを測定表示することが一般的になってくるとともに、 デジタル信号処理技術も発達してくる。それに伴って、近接した2点の音圧から近似値的に粒子速度を求める方法が開発され、 それをベースにしたインテンシティー計測法が音響学会で発表された。
当時、無響室は当社の主力商品であったが、インテンシティー計測法が実用化されれば、無響室でなくても現場で機器の騒音測定が可能になる。 これに危機感を抱いた私は、無響室に代わる商品を開発したいと考えたのだ。
そもそも、インテンシティー計測法は、極論すれば音の密度をダイレクトに測定する方法と言える。そのためには、 最小単位として1立方メートルの空間を切り出し、それを10cm間隔にマイクロホンを設置して計測する必要があった。つまり、 100ヶ所を測定しなければならなかったのである。それがどれだけ気の遠くなる作業であるか、無響室の検収測定で嫌というほど苦労していた当社には分かっていた。
当社では無響室の検収に、室内に張ったワイヤーにマイクロホンを付けたケーブルカーをぶら下げ、 それを人間が紐で引っ張る"人力トラバース"なるものを用いていたが、インテンシティー計測法でそんなことをしていたら日が暮れてしまう。 そこで、10cmのディメンションで自動的にマイクロホンが移動するシステムの開発を思い立ったのだ。
開発の経緯に関しては、当社で発行している「技術ニュース」第1号の「マイクロホン移動装置(MT)開発までの経緯」の中に詳しく紹介されている。 ともかく、こうして開発されたMTシステムは、お客様のニーズに対応して、DCサーボモーター使用の商品やベクトル測定に便利な商品、 半球面を自由に動く商品など多彩なシステムが開発されるなど思った以上のヒット商品になっている。
もちろん、当社の測定現場では、シリンダからのわずかのノイズもMTシステムの測定結果から解析できるようになった。 余談だが、その修正は職人が行っており、ほんのちょっとなでるだけで1割くらいパワーがアップするのを目の当たりにした。 見事な職人技には驚かされる。
また、この頃の技術開発としてもうひとつ印象に残っているのは、航空機の高度コース測定システムである。
それは忘れもしない1985年8月12日夕刻のこと、大阪空港を目指して羽田を飛び立った日航機が、 相模湾上空で消息を絶ったという衝撃的なニュースが駆け巡った。結局、同機はその後、群馬県の山中に墜落していたところを発見され、 奇跡的に4人が助かったものの乗員乗客合わせて520人の尊い命が失われるという大惨事となった。
この事故を発端に、日本の上空から航空機事故をなくしたいとの想いで開発を始めたのが航空機の高度コース測定システムである。 この技術は、その後、航空機の騒音監視システムと結びつき、現在では日本のほとんどの空港にこの騒音監視システムが導入されるなど、 当社の主力商品に育っている。
「好事魔多し」で不良債権発生
インテンシティー計測法の登場による無響室の一時的な需要減退はあったものの、 この時期はデジタル処理をキーテクノロジーとした技術開発とシステム一括受注による事業の拡大で、業績は極めて順調に伸びていた。 売上高も第14期(84年9月~85年8月)には、初めて20億円を突破する。
しかし、「好事魔多し」とはよく言ったもの。当社も大変な事態に巻き込まれる。それが、某社の倒産による2億5千万円の不良債権の発生である。
この会社からプロ用のレンタルスタジオの経営に乗り出したいということで、当社にスタジオ施工のオファーがあったのだ。
打合せの過程で、当社は映像関係や無響室も担当することとなり、工事見積もりは4億5千万円にも上ることとなった。 工事金額の大きさから、当社もそれなりの覚悟で契約した。しかし、不幸にも工事の途中でこの会社は倒産。当社がもろに火の粉を被ることになったのである。 工事金額の大きさと倒産のタイミングが悪く、2億5千万円が不良債権となったのだ。文字通り緊急事態である。
一番心配されたのが、お客様の当社に対する信頼が揺らぐことである。信頼して頂けるようになるのは容易なことではないが、 失うのは一瞬である。事件発生後、すぐにお客様回りを行った。しかし、ありがたいことに、古くからお付き合いを頂いていたお客様からは、 むしろ励ましのお言葉をいただき、涙が出るほどうれしかった。
業績は、漸く、順調に推移するようになっていたとはいえ、当社の体力では、たちまち資金繰りに窮する事態に陥ったことは紛れもないことである。 しかし、親会社である日東紡績から支援の約束をいただき、当面、協力業者に迷惑をかけることは免れた。
この苦境を乗り越えるために、社員が一致団結して事業運営に取り組む決意を固めることもできた。 すぐに緊急再建計画を立案し、先に述べた研究開発も中断のやむなきに至ったことはもちろんである。
この時期、日本経済は86年の円高不況を乗り越え、長期の景気拡大期(バブル景気)に入ったことも不良債権の償却に関しては奏効した。 当社の人員規模では消化しきれないほどのオファーが入り、第18期(88年5月~89年3月)の経営計画では消化力の見直しをテーマにしたほどである。
結局、不良債権の償却は2年という驚くほどの短期間で完了する。そして、研究開発を再開するとともに、 大学研究室との連携強化の一環として九州芸術工科大学と東京電機大学に研究生を派遣するなど技術力のさらなる強化に乗り出す。 第20期(90年4月~91年3月)には、売上高が40億円を突破。数字の上でも当社は再び成長路線に戻ったように見えた。
しかも派遣した研究生からは博士が誕生。博士号を取得した「音の波動性を考慮した3次元音場シミュレーションに関する研究」は、 論文のままで終わらせるのは惜しいとの助言があり、ソフトウエアとして商品化しようという動きにもつながった。
スタジオづくりの黄金期へ
会社の経営が数字的に絶頂期を迎えていたのに対して、スタジオづくりも黄金期ともいえる時代を迎えようとしていた。 協力業者の腕のいい職人さん達と仕事を競い合う非常にいい関係が軌道に乗るとともに、お客様に対しても理想とした"音の仕立て屋"的な密度の濃いコミニュケーションで、 ニーズに応えるだけでなく音響のプロとしてこちらから提案することもできるようになったのである。
例えば、スタジオ運営の効率化を図るツインコントロールルームの設置もそのひとつ。 これまでのようにレコーディングスタジオとコントロールルームが1対1の場合、収録よりも編集作業に倍以上の時間がかかることから、 編集作業中はレコーディングスタジオが空いてしまっていた。バブルで地価が高騰したこの時代、運営効率が非常に悪かった。
これに対して、当社が提案したツインコントロールルームは、1室のレコーディングスタジオと2室のコントロールルームが対になる。 このため、編集作業中も、もうひとつのコントロールルームを使って収録ができるなどスタジオの効率運営が可能になる。 日本人的発送のスタジオづくりと言えるだろう。
ところが、縁とは不思議なもので、東芝EMIにツインコントロールルームを提案したことがきっかけとなり、 同社と業務提携していたハリウッドのタワーレコードからもスタジオ建設にあたって、入札のオファーをいただいた。 そして、当社とアメリカの2社の合計3社でコンペを実施。幸運にも、基本設計を受注することができたのである。
本来なら実施設計から施工管理まで担当したかったところだが、米国のこうした施設における建築は身体障害者への配慮など規制が多く、 米国でのこうした施工ノウハウがない当社では荷が重いと判断して初めから入札しなかった。
しかし、そこはソフトに対する理解があるお国柄。基本設計は5万ドルで落札したが、 聞けば実施設計は施工管理別で4倍(日本なら良くて基本設計の倍)の20万ドルだったという。心の中で「こんちくしょう」と思ったが、後の祭りだった。
また、93年11月にオープンしたコンシピオ・スタジオはビッグアーティストから絶賛いただいた思い出深い仕事になった。 このスタジオは、コンセプト、プランニング、デザインそしてマネージメントに関わった方々がそうそうたるメンバーが顔を揃えたスタジオであった。 示されたデザイン・コンセプトも、「ヘビーデューティー」「無駄な装飾の排除」「従来のスタジオデザインにとらわれない」 「シャープで新しい感覚」「陰影のある照明」「ローコスト」・・・といったキーワードが並んだ。
そこで私たちは場所がRC4階建ての倉庫の3階という立地条件を最大限に活用。スタジオづくりでよく使われるクロスパネルを使わず、 意匠的にコンクリートブロックや鉄骨をむき出しにすることでヘビーな雰囲気を醸し出すとともに、 壁面に厚みの異なるブロックを積むことで陰影を作り出すことに成功した。
こうして完成したコンシピオ・スタジオは、オリジナリティーあふれるスタジオということで、 プロサウンド(ヨーロッパ)が選ぶ「その年の5つのスタジオ」に入選することができた。しかし、何よりうれしかったのは、 私の敬愛するスタジオミュージシャンの方から、「茂田さん、ヤッタネ」と最大級の賛辞を贈られたことだった。 この方は日本の音楽界を代表するビッグアーティストの人達のピアノを担当するスタジオミュージシャンとして広く知られ、 彼のスケジュールで収録日が左右されるとウワサされる超一流アーティストだった。その彼がほめてくれたのである。 自分でも納得がいった仕事だっただけに、喜びは倍増した。
バブル景気の崩壊でアゲンストの風に
しかし、満ちれば欠けるが世の習い。このことは十分承知していたつもりだった。バブル景気による潤沢な仕事を消化することに追われるあまり、 足元がぐらつき出していることに対するケアが疎かになっていた。
景気拡大というフォローの風にのり大きく業績を伸ばした当社は90年代に入っても好調を維持する。 第21期(91年4月~92年3月)の第5次3カ年計画では、売上高経常利益率の目標として5%を掲げるとともにアミューズメント分野への進出も模索した。 まさにバブル景気を謳歌していたと言っていいだろう。
しかし、「山高ければ谷深し」のことわざ通り、フォローの風を己の力と過信したツケは大きかった。 好調時に溜まった澱のようにたまった問題点が、バブル崩壊でアゲンストの風に変わるとともに一挙に噴き出したのである。
ひとつがコストの問題だ。80年代前半まで、ゼネコンの下請工事価格が、当社の下請工事価格より低いという現象は見られなかった。 ところがバブル崩壊で買い手市場になったことで、大手から価格破壊が始まったのである。ゼネコンの購買担当者は、 同業複数の業者から見積もりをとり工事価格を比較。その上で、下請希望価格を提示するなどして原価の低減を図っていた。
これに対して当社は、共存共栄の名の下に、材工一括で協力会社に任せるケースが増えていた。そのため、 材料費や労務費の細かい管理が疎かになり、コストダウン努力が不足していた。結果として、当時の下請工事価格は工種によるバラツキはあるものの、 必ずしもコスト競争力が優れているとは言えなくなっていたのである。
また、工事管理能力にも問題を抱えていた。組織力や技術力は以前に比べて向上していたにも拘らず、 個々の工事における管理能力が低下したのではと疑われるケースが見られるようになったのである。工事のロスや手戻りの発生が増加していたのである。
さらに、共存共栄を前提に信頼関係を深めていたはずの協力会社との関係も微妙になっていた。 ゼネコンが自社の下請を見殺しにできない関係から、当社がゼネコンから受注した一部の物件で協力会社以外の業者に発注せざるを得なかったのだが、 それに不況の長期化で焦りを感じていた協力会社が不満を募らせたのだ。当社の配慮不足と営業努力の怠慢という非難も出るようになった。
追い討ちをかけたのが、2千万円を超える不良債権の発生と歴史のあるコンペティターの倒産である。 とても他人事とは思えない出来事だった。
3度目の経営の建て直しに奔走
これまでの中で述べてきたように、当社は過去においても何度か危機的状況に見舞われている。しかし、 その度に全スタッフの団結と知恵を出し合うことでそれを克服してきた。今回の経営危機にあたっても、 広くスタッフや協力会社の協力を得ることで打破できるものと信じ社内外の意識改革に乗り出した。
ひとつが営業体制の問題である。もともと営業部は、設立から3ヶ月を経て創設したが、3年余りで廃部。 一時は、全員営業を基本とするプロジェクト対応に移行していた。しかし、プロジェクト対応で現場に戦力を割くと営業活動が手薄になり、 受注の安定化が図れないというジレンマがあった。そのため、これを解消する方策として全社的な合意のもと、1985年9月に企画営業部として復活していたのである。
しかし、現状は営業部の存在を懐疑的に捉える社員が少なくなかった。その原因は、「全社的営業戦略と戦術の率先垂範に欠けること」と「工事営業に偏り、 現状は第2工事部的活動が中心であったこと」、そして「実態として狭い範囲の顧客対応に忙殺されていること」の3点に集約される。 そこで96年2月、「営業部の今後」と題したレポートを発信。その中で基本的な取り組む姿勢として、以下のように強調した。
「営業活動の基本は、顧客の期待に応え信頼を獲得することである。業績は景気の変動に左右され営業努力が報われないことがある。 したがって業績低下を営業活動の努力不足と決め付けず、営業活動の基本を怠らないことが大切。それには、常に以下の3点を意識し自分の言動をコントロールすることだ。」
- 対外対応が自分の仕事だと認識する。
- 相手の理解に努め相手の立場で物事を考える。
- 仲間(組織)を意識し、対応能力(音響分野における総合的な技術力)の可能性を認識する。
二つ目は原価意識の徹底である。当社のコスト競争力は競合他社に比べて優れているとはいえないことは既に述べた通りだが、 一時期は他社に勝る原価の提供を心がけ自信を持っていたこともあった。それは面倒をいとわず、きめ細かく原価管理を行っていたからである。 個々の原価を細分化して管理することで徹底した無駄を省くことができ、それが付加価値の向上につながっていたのである。
当社のような手作りの商品は、職人依存の部分が大きく、外科的な手術で画期的に工事原価を削減することはほとんど期待できない。 時間を要しても、実績に基づいて個々の原価を明確にし、要素別に整理比較して繰り返し無駄な因子を徹底的に洗い出すことがポイントになるのである。 97年にはパソコンを活用。原価管理を効率的に行うツールを用意して、原価管理の徹底による工事原価の削減を訴えた。
三つ目が協力会社との信頼関係の再構築である。協力会社とは共存共栄を図るため、互いに自主性を尊重し、 対等の立場で切磋琢磨できるよう音友協会を設立していたが、次第に本来の趣旨から外れ、業界の観念的な下請という立場に甘んじる傾向が見られるようになっていた。 そこで97年の音友協会の総会で、原点に戻ろうと訴えたのである。
そして第6次3カ年計画では、当社がユニークな存在としてその魅力を失った事実を自覚し存在感と本来の魅力を甦らせるために、 顧客の立場で考え顧客が意図する技術力と業務能力の向上を目指す「顧客ベスト対応の実現」を打ち出したのである。
相次ぐクレームに体制の一新を決意
バブル経済の崩壊から6年、これまでと同様、全社的な知恵の結集で危機的状況を打破できるものと信じてコンセンサスを重視してきたが、 今回は勝手が違った。急速に変化する時代に即応して、顧客ニーズを的確につかむこともできなければ、本来あるべき事業の姿を取り戻すこともできなかったのである。
これまで当社は、無響室や残響室、ホールやスタジオ関連施設について、音響性能機構の設計や安全性、 コスト、耐久性を考慮した工法の提案を行い、これによって受注を有利に展開することで業績を築いてきた。つまり、 コスト競争に陥りやすい競合する工事を避け、当社しかできないような分野にシフトすることで活路を開いてきたのである。
ところが、バブル景気に安住したことで、懸念した技術面の弱体化が現実のものとなり、中々新しい工法を提案できない。 物件に関する情報も、発生源であるお客様に注目するという認識が低下、設計事務所やゼネコン、さらには商社からの情報が増えているのが実情で、 この時点で得る情報は全体のプランに関する魅力ある提案に制約があり、勢いコスト競争に頼らざるを得ない状況だった。
コンサルタント部門にしても同様であった。音響技術を売り物に商売を始めた初期の頃は、技術は未熟だったが町医者的なコンサルタント活動を行っていた。 つまり、音響に関することなら何でも幅広く相談を受け、これに対応するため、泥縄式に技術を勉強したり、計測システムの導入や陣容強化を図ったりした。 そうした活動が最終的に測定や設計、現場管理という報酬に変わり、それを技術開発投資に向けることができたのだ。 ところが、現状のコンサルタント活動は測定業務に偏り、これが固定化して活力を失っていた。
そして第6次3カ年計画の最終年度である第28期(99年4月~2000年3月)を迎えても、当面の仕事が忙しいことを理由に 「顧客ベスト対応の実現」に関する諸対策が遅々として実行できなかった。加えて、各所の工事でクレームが相次いで発生。その対応に追われることになった。
いずれも、請負工事に対する認識不足とお客様とのコミュニケーションの不足が今回のクレームを招いたのである。 陣頭に立ち、そのリカバーには万全を期し、お客様の信頼回復に努めたが、これらのクレームが営業面で大きな打撃となることは間違いなかった。
言うまでもなく、こうした状況を招いたのは、舵取り役を任された私の責任にほかならなかった。 一縷の望みをかけた第6次3ヵ年計画も、クレームの多発と相俟って成り行き任せの業務進捗をコントロールできず、 所期の目的は掛け声倒れに終わろうとしていた。
もはや私が社長を退任して社内の空気を一新するほかない。2000年を目前に、こう決断したのである。
音響工事の将来
振り返ってみれば、音響工事分野の技術者として職人に助けて頂いた期間が40年を超えた。この間、 私は素晴らしい職人の皆さんに出会えて幸せだった。放送や音楽の分野を皮切りに、製鐵や教育機関、家電、自動車、航空機などあらゆる産業分野といっても過言ではない広い分野で、 音響に関する仕事ができたのは、私がイメージしたものを見事に実現してくれる職人に恵まれたからである。仕事の出来映えが私の設計の難点をカバーしてくれたと言ってもいい。 「当社に設計施工をお願いするのが夢だった」と、スタジオ完成後にしみじみ語ってくれた経営者がいたのも事実で、好況期には当社の力不足をお詫びして仕事をお断りしたこともある。
ただ、バブル経済の崩壊以降は、私の力不足もあって経営再建に追われ満足いく仕事ができなかった。しかも、 再建の道筋を見つけることもできなかったのは心残りでもある。「老兵は死なず。ただ去り行くのみ」と言って現役を退いたのは、 かのマッカーサー元帥だが、あえて当社の今後について私見を述べたい。
一見、音響工事を取り巻く環境は厳しく感じられるがそもそも音響工事が一般建築と一線を画するようになったのは、 主として防振と遮音、残響の性能を特化し、聴感と対比して推奨値が提案されたことによる。
その歴史は、ようやく半世紀を超えたところで、この間に良い音環境に対する一般建築家の関心が高まり音響技術者の存在が注目を集めるようになった。 ご存じのように、これが顕著になるのは高度成長期以降のことで、劇場やホール、映画館、放送局、無響室など比較的狭い分野が音響技術者の活躍の舞台となってきた。
それに対して、都市空間にエコロジーを取り戻そうと叫ばれるようになって20年が経つが、集合住宅や公共的空間に音響工学を取り入れているのは、 遮音や防振、吸音に関する比較的簡単な技術に過ぎず、実態は依然として建築工学や材料工学を駆使した経済効果追及の塊といっても過言ではない。 音響工学の分野から魅力ある提案がなされるのは、これからが本番と言ってよい。また、急速に進展している情報化の分野においても、 音響技術のサポートは欠かせない。
このようにまだまだ大きな可能性を秘めている音響工事だが、その可能性を掴み取るためには、 私たちがお客様からお預りした貴重な原資を有効に活用する義務を負っていることを忘れてはならない。 つまり、音響工事は音響性能さえ満足すればいいというものではないのである。
そのためには、最近の音響工事はシステムの一部という見方ができることから、お客様に、満足していただく必要条件として、 基本的なコンセプトの相互理解からスタートし固有の用途や機能を理解しシステムとしての性能を100%発揮する施工が理想となる。 さらに十分条件として出来映えがよく使い勝手やメンテナンスも容易で維持経費が軽減できる配慮、アフターケアも必要だ。 こうした必要十分条件をクリアし、お客様の満足を得てはじめて明日への展望が開けると考えている。