日本音響エンジニアリング株式会社 特別顧問(前 社長)
茂田 敏昭
音が一番の関心事だった少年時代
音響の仕事に携わるようになってほぼ半世紀。人生の大半を「いい音のする空間づくり」に費やしてきたが、 未だに「満足のできる音の空間」を実現していない。それでもいい音のする空間を求め続けるのは、この仕事が好きだからである。 「好きこそものの上手なれ」。そのことわざに賭けている。
音の世界に興味を持つようになったのは小学生(国民学校)時代にさかのぼる。4、5年生のときだったと想うが、 理科で音速が約340m/secと教えられ、これが事実かどうか試してみようと考えたことがある。
ある日、農作業を手伝っていると、遠くで杭打する人が目に止まった。槌を打ち下ろしたときの姿と槌音が聞こえる間にずれがある。 そこで、音がどれくらい遅れるか、田んぼの中を杭打ちしている人のところまで、できるだけ真っ直ぐ歩いて距離を歩測し、納得したことがある。
田舎暮らしの私にとって、音ほど感性を刺激するものは無かった。雷や洪水の濁流、山火事の音は身の竦むような恐怖心をかきたて、 一方、ひばりのさえずりや小川のせせらぎには、この上ない安らぎを感ずる。音の不思議さに魅了された。
建築家を志して夜間の大学に通うようになると、日本の伝統的な建築技術と音の関係に目が向くようになる。
例えば、京都大原の三千院。500人くらい入っても平気な大講堂があるが、 マイクロフォンを使わなくても僧侶の説法が全員を説き伏せるだけの音量で響く。日本は、奈良、平安の昔から高度な音響技術を生活の知恵として持っていたようである。
諸先生に知遇を得る幸運
私の"音狂"人生を語る上で、人との巡り会いが欠かせない。心に残る音響分野の諸先生は、五十嵐寿一先生をはじめ石井聖光先生、 三浦種敏先生、中島平太郎先生、永田穂先生、子安勝先生、吉田登美雄先生、木村翔先生、 安岡正人先生、橘秀樹先生、既に鬼籍に入られた二村先生、北村先生、伊達先生など多士済々である。
技術ニュース6号で「私の夢」にご寄稿いただいた石井聖光先生(東大名誉教授)とは、墨田区役所向島支店営繕課に在職中、 先生の論文を拝読して分からない点を電話でご質問したのがご縁(1958年)。
その時「近いうち六本木に返るので、落ち着いたら何時でもいらっしゃい」と温かい言葉をいただいた。 頃合いを見計らい実際にお訪ねすると、親身になって論旨のご説明をしていただき、その上、音響分野で具体的な実績をお持ちの方々をご紹介していただいた。 中でも、鹿島建設技術研究所の長友様、古宇田様には、具体的に教えていただき、以後、師として仰ぎ厚遇を得る。石井研究室には度々お邪魔したが、 先生には何時もご親切に対応していただき、後には東大生産技術研究所における音響施設の建設をお手伝いさせていただくことになる。
当時営繕課で、運良く小中学校の放送室や音楽室の設計の規格化を推進する機会に恵まれた。規格化といっても戦後の復興期のこと、 前例が無いことから、試行錯誤しながらまとめ上げた。既に吸音材としてロックウールやグラスウールは生産されていたが、役所の予算では手が出ない。 そこで、ワラ屑を吸音材として利用した。ちょうど、失業対策労務者救済事業が行われていた頃で、 ニコヨン(240円の日当が支給され、こう呼ばれた)のおばさんが古いむしろを熊手でかきワラ屑を造り、これを利用したのである。 遮音のため浮き構造にしなければならないときは、防振ゴムを買う予算がないので古い畳を床に敷き、この上に軸組み自立させ、躯体と縁を切るという具合だった。
こうして貴重な体験をした区役所の仕事だったが、「役人を3年やると止められなくなる」という先輩の言葉と、やはり甘いと感じた役所の水は、 自分には不似合いだと勝手に決め付け1959年12月14日、赤穂浪士の討ち入りの日に因んで辞表を提出した。 その裏には、音響技術者が不足していることから音響分野の研究者は具体的な仕事に追われ、本来の研究ができないのではないかと1人密に感じていたことが上げられる。
建築分野においては、既に研究者と技術者の役割が確立し、研究者は本来の研究に没頭できる環境が整っていた。一方の音響分野は、 明治以降のわが国の教育制度に似ていた。江戸幕府の寺子屋制度とは対照的に、先ず大学を作り順に高等学校、中学、小学校の設立を普及させたように、 音響分野も先ず指導者ありきの時代で、音響技術者の育成はこれからという時代だったように思う。
職人の腕や知恵に魅せられた出会い
区役所を止める言訳に「音響分野の技術者集団を目指すと大見得を切ったため、母や兄が心配して上京した。東京にいた姉には「誇大妄想教、 音気違」とまでののしられたが、これは後の祭り。結局、音響関係の仕事がしたくて区役所をやめた。だが、それだけれは食っていけるはずもなかった。 その上、夜間の大学も未だ1年残っていた。生活費と学費を稼ぐため、手当たり次第に工務店の下請で図面を書き積算もやった。
思いがけないところでは、連合赤軍が立てこもり事件を起こした浅間山荘があり、事件発生と同時に警視庁から図面を取りに来たのには驚いた。 ここでは、モデル住宅の設計も数件行っていた。その他、喫茶店や麻雀店の設計を行い、喫茶店は設計だけではなく自分で好きなように造り、 実際に運営して固定客が増えたところで、居抜きで転売することも数件手掛けた。これは結婚後も家族に内緒で続けていたが、結局バレ、 全て処分したのは1965年の春である。
住宅設計で一番印象に残っているのは、住吉町の中村低(元本所警察署署長)の設計を行ったときのこと。中村さんに工事を請け負う棟梁の久保さんを紹介していただいた。 久保さんは腕の好い宮大工で、上がり框(かまち)の出隅や入隅、床框、落掛、吊り床の化粧柱、更に二枚ホゾ、傾きホゾなど見事な技術を伝承していた。 時折、一升瓶を持って自宅へ伺い、現場と職人さんについては色々なことを教えていただいた。「設計屋さんはもっと現場を勉強しなきゃ駄目だよ」というのが口癖で、 酔うと奥さんに向かい「俺は将来の学士に講義をしているんだ」と得意顔だったのが印象に残っている。
久保さんの教えの中に「木材は山に生えていた状態で使え」と言うのがあり、これを初めて聞いたときはハッとした。 久保さんの言葉を分かり易く説明すると、材木の元口と末口を見て、山の斜面に生えていた状態を判断し、反りが揃う材料の選び方や使い方を指している。 私はそれまで「下地がランダムに反らないように注意して下さい」とお願いするのが関の山で、材木の日表や日裏を自分でチェックしたことはなかった。
33角(3寸×3寸)以上の芯持材の場合、元口と末口を見ながら教えられれば素人でも立ち木の様子がある程度は想像できる。ところが、 音響分野の内装工事に使う下地材は端柄材がほとんど。しかも現場で刻まれていて、どちらが元口か末口か、その判別さえも素人には難しい。 だから、もっと現場を勉強しないと好い現場管理はできないという訳である。また、職人が使っている道具を見ることや職人の仕事には、 職種別の職人に仕事を引き継ぐ仕口があり、その納まりを良く知っている職人でなければ、好い仕事はできないと教えられた。これは今でも実践していて、 職人さんが仕事に応じて使う道具をさりげなく見届けたり、単刀直入に「道具を見せて下さい」とお願いすることもある。
道具を見せて下さいとお願いして、こちらを怪訝そうに伺う人は、私の現場管理能力を推し図っている可能性が高く、快く応じて呉れる人も道具を見た結果、 どういう職人の使い方をするか興味を持っているに違いない。道具を見せない人は、プライドが高く敢えて見せる必要はないと考えているか、 今、持っている道具を見て技量を判断して欲しくない、のいずれかである。したがって、後者の場合は、以後の仕事振りをさりげなく観察し、 彼の活用法を判断することになる。
「昔の職人は、山で素性の良い木(捩じれや曲がり、節が少ない)を見付け、楔を使って割り、板材にした」と言うのを聴いて膝を叩いた想い出もある。
学生時代、鎌倉の円覚寺をはじめ古い社寺のでき映えに興味を持ったのは、現在のようなカンナやノコギリが無い時代に、 どうやって造ったのだろうと疑問を持ったからである。円覚寺では、床下から天井裏まで潜らせていただき、土足で山門に登った時は住職に怒られたが、 本堂の須弥壇前で行われる僧侶の説法は一際恭しく聞こえた記憶がある。久保さんにお会いしていなかったら、現場に興味を持つようになったかどうか疑わしく、 職人の技や知恵に魅せられることは無かったように思う。
スタジオ建設に邁進する日々
初めて本格的なスタジオ造りに参加したのは1960年(昭和35年)、有楽町、朝日会館に造った朝日放送ラジオとテレビで、 竹中工務店のもとで施工図と施工管理を担当することができた。この仕事が糸口となり翌年は、 船越先生(当時・日建設計東京支社長・後日大教授)のもとで12チャンネル(現・テレビ東京・東京タワー)新社屋スタジオの施工図及びキングスタジオ一部の施工図と手伝わせていただいた。
壁や天井の一部を吸音面にするとき、壁面の下地にグラスウールを詰め、この上にクロスを張っていたが、クロスの張り方で見栄えが引き立つのではと考え張り方を工夫した。 施工図の段階で先生に「巻き返し貼り」と命名していただいた懐かしい想い出があり、これは今でもやることがある。
先生には、後に(1963年)日立家電研究所(戸塚)の無響室の施工を手伝わせていただき、90度回転して出入口の有効巾が90cmになる扉の厚さ約90cmの納まりと金物を考案し、 ドアーはバタフライドアー、その金物はカップヒンヂと命名していただいたこともある。
フジテレビの河田町スタジオは、施設担当者のご好意で墨田区役所在職中から休み毎に良く見学させていただき、独立後は部分的な改修のお手伝いをさせていただく関係に発展した。 その中で、特に印象深いのは投じマンモススタジオと呼んでいた第6スタジオを改修し「夜のヒットスタジオ」という番組が人気を博したことがある。 そのお陰で、以後の12年間は連続して改修に携わり、その経験はNTVやTBSをはじめとするキー局(関西含む)だけでなく、地方局のスタジオ改修や新設にも役立ち、お台場の新社屋建設へと続くのである。
もう一つ想い出深いのは、報道スタジオ(第9スタジオと呼んでいた)が完成したときのこと。遮音が悪く隣のスタジオ(第7スタジオ)の音が影響するという厄介な問題が持ち上がった。 これについて社内会議が行われ、施設担当者から会議の結果を待つよう指示があり、結果次第で直ぐに改修計画の検討を行い、できるだけ早く稼動させたい意向を示された。
そこで、鹿島建設の担当者と現場事務所で会議の結果をお待ちすることにしたが、会議はなかなか終わらない。ついには翌朝になっても結論は出なかった。その間、夕方7時頃から翌朝7時頃の間に、 祝い酒の一斗を二人で空けてしまったのは若気の至り。後で、その担当者は急性アルコール中毒で入院したと聞き、きまりの悪い思いをした。
昭和40年代に入ると、音響工事の経験を買われ、主として音楽録音スタジオの実施設計と現場管理が次々に舞い込む。天野太郎研究室の指示による東京芸術大学録音スタジオを皮切りに、 ミノルフォンレコードの録音スタジオ、続いて毛利スタジオ(我が国のレンタルスタジオの草分け的存在)、ポリドール大橋スタジオ、ビクター青山スタジオの実施設計に着手。
昭和45年アルファレコードスタジオ、その後、クラウンレコードスタジオ、パイオニア目黒スタジオへと続く。
これだけ立て続けに録音スタジオを手掛けることができたのは、第一に設計者に恵まれたこと。第二は、 私のようにバカな音響技術者が我が国に少なく実施設計と現場管理をやる者がほとんどいなかったことが上げられる。それに、運も味方したようである。 運の見方の極めつけは、新しい録音スタジオの完成直後に生まれたヒット曲や歌謡界のスターたちである。
記憶に残るのは、千昌夫と星影のワルツ、五木ひろし(よこはま・たそがれ)、尾崎紀世彦(また逢う日まで)、荒井由美(ユーミン)、イエローマジックオーケストラ(YMO)。 フジテレビの改修時にお世話になったディック・ミネさん、ダン・池田さんも忘れられない人達で、昭和40年代の初期、音響テストをお手伝いいただいたことがある。
一方、昭和40年代は、音響内装工事の仕上がりや仕事の見栄えについて、もう一つ満足できないもどかしさを感じていた時代である。 録音や映像のスタジオで、好ましい音(音声、楽器)の録音や映像の収録が可能なことは必要条件であるが、必ずしも充分条件とは言えないと感じていた。 つまり、居心地の良さやクリエイティブな仕事場に相応しい雰囲気が欠けていると感じていたのだ。これは、設計上の問題というよりも、 実施設計に基づいて行う施工体制や施工能力、そこで作業する職人の技能に関わり、現場管理者として自分自身の力不足も痛感していた。
人間の主観的評価に左右されるリスク
新会社が発足して間もない頃(1974~1978年)、私の他はスタジオ施工の仕事をあまりやりたがらなかった。その理由は、スタジオ関係の仕事はリスクが大きいと考えていた点が上げられる。 無響室や防音室の音響性能は、物理的な計測が可能な上、その結果に基づいて具体的な数値評価ができる。つまり、注文者と造り手は事前に設計図書に記載した内容を共通事項として認識し、 これに基づいて施工の検収を行うことができた。これに比べると録音スタジオの施工検収は、設計図書によって注文者と造り手が共通認識をもつことができるのは、 録音スタジオの性能という面で捉えるとごく一部、内装材やその仕上がり、納まりに関するものだけである。
録音スタジオの性能評価を一言で表現すると、利用価値の程度によって決まるが、その評価は当該スタジオを利用するミキシングエンジニアを中心としたスタッフに委ねられていた。 これは言葉を替えると、物理的な数値評価ではなく彼等の主観的な評価に左右されていたと言える。もっと具体的に表現すると、注文者側の検収者と造り手側の責任者は、使い勝手を確認した後、 徹夜の連続で音質のチェックと調整と繰り返し、手直しを行い、お互いに疲れ果て妥協点を見出す以外に終了の見通しが立たなかった。 このため、やむを得ず妥協して引き渡しを完了する場合が少なくなかったのだ。客先にとって、ほかに注文するところが無い、というのが本音だったようである。
ミキシングエンジニアの側に立って録音作業を想定すると、録音スタジオと録音システムの音響性能が旨くマッチし、ミュージシャンやアーティストの立場も考慮した上で、 音楽ソフトはイメージ通りに仕上がるのがベターである。言葉を替えると、ミキシングエンジニアにとって重要なのは、実際にモニターシステムを通して受聴する音の明瞭度やイコライザー、 リバーブの効果がもたらす音色やエコー感、乾湿、寒暖、パワーの強弱、サウンドバランスである。ところがこれは個人の感性がイメージするもので、これに物理的な物差しを当て、 数値化して合否の基準を示すのは難しい。
こうした経験を繰り返し、音響学会の懇親会(1971年)に出席し「いい音」の基準を設けることはできないでしょうか、と諸先生にご相談したことがある。 それほどに悩みは大きく、これが解決しないまま糸を引き、これは少なからず現状にも及んでいる。
リスクの大きさを身をもって体験
スタジオの施工に明け暮れ検収に悩んでいたことは既に述べたが、その難しさを身を持って体験したのは昭和43年であった。
ある試聴室を設計施工した際、既存の試聴室と音響的に同等の性能を要求されたため、その試聴室について音響測定を実施し、模型実験を含め、 物理特性の似通った設計を行い施行したが、そこの担当者の了解を得ることはできなかった。
元々あった試聴室と新たに施行したものは、部分的に天井高が異なるという差はあるが、設計上のボリューム、表面積、残響時間が似通っていたにも関わらず、 同じ再生システムを利用して音楽を試聴した結果には大きな差が生じていた。
そこで、造り直しに近い手直しを行い、調整段階では担当者と一緒に試行錯誤を繰り返したが、それでも担当者のご満足は得られなかった。 「ここまで努力したんだから、茂田さん、もういいですよ」と慰めの言葉をいただいたのが忘れられない。
高い授業料(結果的に費用は受注金額の2倍以上を要した)だったが、室の物理特性が似通っているだけでは、 音質が似通っているとは言えないことを学ぶ貴重な体験をした。
その後、録音スタジオの新設や改修について相談を受けると、客先側のミキシングエンジニアと録音に関する意見交換を積極的に行い、 好みの音を聞くことに徹した
時にはミキシングの真似事をさせていただくこともあり、システム機器の再生音はメーカーによって微妙にニュアンスが異なることも体験した。 ミキシングエンジニアが録音スタジオに何を求め、どんな録音をしたいと考えているか、この点についてある程度理解できないと設計や現場管理は無論のこと、 検収に立ち会いクレームに対応することは難しい。
私は、一方で「音の仕立て屋です」と自己紹介し、他方では「音響工事は音の世界が好きでなければできない」と口癖のように言っているが、 これは「音に惚れ、そのとりこ」になって、はじめて音響工事ができると実感したからであり、関係者との共存に自分の生きる道があると信じているからである。