企画部営業推進室 高島和博

1.はじめに

2022年3月、日本音響エンジニアリングは創立50周年を迎えました。半世紀に渡り、様々なスタジオ、無響室をはじめとする実験室、楽器練習室、オーディオルーム等の設計・施工に携わり、音に関係するコンサルティングサービス、音響測定システムなどをご提供させて頂いてまいりました。一方、創立から五十余年の間には、当社にとっていくつかエポックメイキングな工事案件の受託や、製品・サービスの開発が行われ、お客様にもご支持を頂きながら当社は発展してきました。現在ではその形こそなくても、当時のエッセンスは社内で受け継がれています。そこで「NOEの技術開発史」と題し、これらの製品・サービス開発に改めてスポットライトを当て、そのコンセプトについて当時を知る方にインタビューし、往年の製品のご紹介だけでなくプロジェクトの経緯や現在までの変遷についてご紹介するシリーズを企画しました。第1回目に取り上げるのは、室内音場シミュレーションシステムです。NOE技術ニュースに初めて音場シミュレーションが登場するのは、1993年4月発行の第3号、「DASPを使った音場シミュレーションシステム」という記事[1]で、このシステムの中核をなすのが、音場シミュレーションソフトウェア「CONCERT」、音場可聴化システム「SYMPHONY」です。今回の記事は当時の開発、営業を担当していた、音空間事業本部の崎山安洋、企画部研究開発室の大山宏、データサイエンス事業部の堤正利にインタビューを行い、内容を構成したものです。

2.CONCERTの開発

音場シミュレーションソフトウェアCONCERTの開発は、1990年前後に戸田建設株式会社様からご要望を頂いたのがきっかけでした。現在は商用の室内音響シミュレータが複数販売されており、クラウドベースの音響シミュレータも候補になる時代ですが、当時はWindowsも16bitのMS-DOS上で動作していた時代です。PC上で動作するUNIXであるLinux開発プロジェクトが始まったのが同時期の1991年、当時はPCの演算能力も貧弱だったため、PC上で大規模な数値シミュレーションが可能になるとは頭の片隅にもなかった時代でした。音響シミュレーションも例外ではなく、コンピュータ上での室内音響シミュレーションは大学で研究され学会で成果は発表されていたものの、商用のソフトウェアは皆無と言ってよい状況でした。
CONCERTは開発プラットホームとしてHP社のUNIXワークステーションであるHP9000300シリーズを選択し、FORTRANを開発言語とし、1年ほどの期間で開発されました。CONCERTは室内形状と壁面の吸音率、音源の位置、特性等を入力として、受音点での応答を幾何光学的に計算する、幾何音響シミュレーションを行うソフトウェアです。室の三次元形状並びに境界面の吸音率を情報として入力し、音源から発せられた音の時間応答を求めるものでした。
本来、幾何音響シミュレーションは、大規模空間の設計で利用されることがほとんどで、当社が得意とするスタジオ等の小空間では波動音響シミュレーションが必要ということは当時から知られていました。しかし、幾何音響シミュレーションは直感的に現象を理解しやすいという特長があり、当時の当社は幾何音響シミュレーションであるCONCERTを何とか我々の設計ツールとして利用したいという明確な意思を持っていました。そのため、実用的に小空間の音響設計で幾何音響シミュレーションを利用するために、次の特徴的な機能が実装されました。代表的かつ特徴的な機能をご紹介しましょう。

●室形状・吸音特性の切り替えの簡便化
現在の三次元CADのように簡単に形状変更ができない時代でしたので、最初に室形状を入力する「固定平面データ」に加え、形状変更を容易にするための「可動平面データ」が入力できるようになっていました。面の角度や吸音特性を容易に切り替えることができるようになっており、仕様変更による影響をシミュレートすることができました。

●音源の疑似三次元指向特性の実装
現代の音響シミュレータでは音源の設定として三次元の指向特性が設定でき、主に大規模空間のスピーカアレンジの検討で用いられています。この三次元指向特性データは設備音響機器メーカーからスピーカのスペックとして公開されています。一方、CONCERT開発当時は、二次元の指向特性(水平面上、鉛直面上)は提供されているデータはありましたが、三次元の指向特性は含まれていませんでした。CONCERTでは、水平面上、鉛直面上の2本の指向特性から、バルーンデータと呼ばれる三次元指向特性を仮想的に合成しシミュレーション計算で利用していました。

●可聴化を想定した63Hz帯域から設定される吸音率
ISO354やJISA1409で規定されている残響室法吸音率の測定に関する規格では、1/3オクターブバンドで100Hz~5000Hzの帯域(1/1オクターブバンドで125Hz~4000Hzの帯域)で測定することが規定されているため、カタログデータとして出回っている残響室法吸音率データはこの帯域に限定されています。一方、当社では今後開発することになる可聴化システムSYMPHONYにはJISやISOの規定外である63Hz帯域からの再現が必要と考えていました。オーディオ機器から再生される音が表情豊かであるためには、低域の再現性が重要な役割を果たします。しかし、世間に出回っているデータベースには、2024年現在でも63Hz帯域の吸音率データは含まれていないのです。そこで当時は別途何らかの手段で測定した結果を用いたり、どうしてもデータがない場合は推定で入力していたりしたようです。世の中にあるものを当たり前とせず、お客様だけでなく私たち自身にとって必要なものは何か、と考え抜いて実装した工夫の一つだったと言えます。

図1 CONCERT で出力された音線図
図1 CONCERT で出力された音線図

CONCERTは戸田建設様から開発のチャンスを頂きましたが、商用化されたシステムがほとんどなかった時代だったこともあり、建設会社だけでなく、日本ビクター株式会社様、松下電器産業株式会社様等の大手の家電メーカー、オーディオメーカーにも納入され、利用されました。販売実績は10ライセンスを超えており、当時の大ヒット商品でした。

3.SYMPHONYの開発

CONCERTの開発がひと段落して間もなく、シミュレーションした室内音響情報を実際に音として聴いてみたいというニーズを実現するために、音場可聴化システムSYMPHONYの開発がスタートしました。
複数のスピーカを使って室内の反射音や響きを再現するためには、当時のコンピュータ環境ではリアルタイム処理をコンピュータ単体で行うことはほぼ不可能で、DSP(DigitalSignalProcessor)の利用が必須でした。これに加え、SYMPHONYでは室内の反射音や響きを再現するだけでなく、再生しながら室形状を切り替えて違いが聴けること、また同じ室形状でも室内音響特性が異なる仕様を切り替えてその効果の違いが聴けること、これらはSYMPHONYを実務的な利用を考えていた当社にとっては絶対に譲れない要件でした。開発当初、SYMPHONYは大手メーカーのDSPユニットを利用したシステムとして検討されていました。当時の市販のDSPユニットは演算性能こそ満足できるものでしたが、既製品では上記のような室形状を切り替えながら音の違いを聴きたいという当社特有のニーズを満たすものはなく、実現するのは難しかったとのことです。そこで当社は、社外からの協力を仰ぎながらSYMPHONYで使用するDSPシステムの自社開発に踏み切りました。完成したDSPはモジュール構成になっており、必要とされる演算量や使用するスピーカ数に合わせてDSPボードの枚数を調整できる仕様でした。
図2はSYMPHONYで用いられたDSPシステムで、当時のパーソナルコンピュータでは主流であった、日本電気(NEC)のPC-9800シリーズの拡張スロットC-BUSの規格で設計されました。当社の試聴室に設置されたシステムは、現代のサラウンドシステムに匹敵する14チャネルの構成で、そのうち2チャンネルを直接音の再生に、残りの12チャンネルを反射音の再生に割り当て、三次元的にリスニングポイントを囲むようにスピーカが配置されていました。主にCDに収録されたドライソース(無響室録音の音源)を入力とし、CONCERTのシミュレーション結果をもとに各スピーカからDSPで処理した到来方向別の反射音成分を割り当て、三次元音場として再生するものでした。SYMPHONYで実装されていた特徴的な機能をご紹介しましょう。

図2 当時のSYMPHONY 用DSPシステム
図2 当時のSYMPHONY 用DSPシステム
図2 当時のSYMPHONY 用DSPシステム

●室形状・吸音特性等が異なる室形状のプリセット
異なるコンサートホール、スタジオのデータを複数登録しておき、音を出しながらモデル(部屋や内装仕様)を切り替えて音を聴くことができる機能です。当社でスタジオ等の音響設計を行ったり、お客様に事前に音を聴いていただいたりする場合には、同じ形状で室内の吸音処理を変化させたものを準備していました。

●直接音と各方向からの反射音のレベルを調節するフェーダーの装備
簡易的に室内音響処理の違いを体験できる方法として、吸音効果を反射音のレベル調整で近似的に実現することを目的として各方向の反射音のレベルを調整できるフェーダーを備えていました。この機能を使うと方向別の反射音の強弱に関係した聴感印象と実際の音響処理の関係性を疑似体験することができます。つまり、スタジオ内装のどこをどのように触れば音質や聴感印象がどう変わるようになるかという経験を現場で試さずとも積むことができ、お客様の問題解決のための引き出しを増やすのに役立ちました。その結果、実際にスタジオやオーディオルームの音響調整の際、お客様とコミュニケーションをとりながら的確にお客様がイメージする音場に導くことができるような「音響調整力」を当社のエンジニアが身に着けることができるようになりました。

●音場の過渡状態を簡単に聴くことができるシステム構成
SYMPHONYはCDプレーヤからのデジタル出力をDSPシステムへの入力として利用しています。通常、CDプレーヤにはリモコンが付属しています。リモコンを使って音を鳴らしながらCDの再生をポーズ(一時停止)すると、SYMPHONYからの再生音では空間内での音の立ち下り、もう少し詳しく言えば実音場のような三次元的な残響感を体験することができます。音の立ち上がり、立ち下がりといった過渡状態には様々な重要な情報が含まれますので、それを意図的に聴くことができることはエンジニアにとって大変有用です。SYMPHONYでは単に三次元音場として方向別の音を再生するシステムというだけでなく、三次元エフェクターとも考えられる構成になっており、室内の響きを与えるDSPが音源や再生システムと独立した構成であったため、このような体験できるようになっていました。

●ホール編とスタジオ編の試聴メニュー
NOEの試聴室でのデモシステムには、ホール編、スタジオ編の2種のメニューが準備されていました。
ホール編では国内外の名だたるホールの室形状が設定されており、壁面等の吸音率は、実際にホールを訪問し現場で確かめた材料情報から推定で入力されていたとのことです。スタジオ編では、サウンドインスタジオ等、当社が設計した日本を代表するスタジオのデータが準備されており、聴き比べができるようになっていました。
図3は当時の試聴室で、SYMPHONYではラージモニタースピーカを直接音の再生に利用し、壁、天井に位置する黒いスピーカ(YAMAHANS-10M)から反射音を再生する仕組みでした。センターに置かれたブラウン管のモニタには、プリセットされている室のワイヤフレームモデルが表示されています。椅子の左前方にあるのが、この記事でもご紹介した直接音と反射音のレベルを可変できるフェーダーです。ちなみにこのラージモニターは当社のオリジナル製品で、実際にスタジオにも納品されていたものです。
このように改めてCONCERT、SYMPHONYの開発の経緯を辿ってみると、音響設計、設置工事(インスタレーション)、音響調整までの一連の仕事が密接かつ有機的にリンクしていたことが分かります。当社では三十余年前からこのような経験を積んできたおかげで、現在のような品質の音響内装をお客様にご提供できるようになったのです。
このように会社として多大な力を注いで開発したSYMPHONYは、大手建設会社だけでなく、テレビ局にも導入されました。しかし、開発から三十余年の間、当社内でも時代の流れに翻弄され続けてきました。何度も事務所の引っ越しや模様替えが行われ、機材の老朽化とともに故障も発生し、現在の当社の試聴室でもSYMPHONYを体験できなくなっていました。そもそもSYMPHONYとは何か、何ができるシステムか、見たこともなければ音も聴いたことがない、そんな世代が社内で多数を占めるようになってきました。

図3 SYMPHONYを設置した当社試聴室(1992年前後)
図3 SYMPHONYを設置した当社試聴室(1992年前後)

4.SYMPHONYの復活-DolbyAtmosとの共存

そんなSYMPHONY、何とこの技術ニュースが発刊される10月を目標に復活させるためのプロジェクトがスタートしました。復活プロジェクトの動機は単なる懐古主義ではなく、当時を知らない若手スタッフにもぜひ使ってほしい、体験してほしいという思いで、当時を知るメンバーがこの技術ニュース執筆作業の間も汗を流しています。
SYMPHONY復活プロジェクトのポイントは、現在の試聴室に設置されているDolbyAtmosHomeシステムの再生系を利用し、現代的なイマーシブオーディオ再生システムと30年以上前の室内音響可聴化シミュレーションを共存させることにあります。SYMPHONY復活のために当時使用していた専用のDSPシステムをメンテナンスし、当時とは異なるDolbyAtmos配置のスピーカ配置での再生を実現するために各スピーカへの反射音の割り当ての設定が変更されました。最新のシステムとSYMPHONYの相性も決して悪くありません。DolbyAtmosシステムで使用しているパワードスピーカ内蔵のDSPによる再生音の補正機能を利用し、各スピーカの設置条件の違いによる再生音のばらつきを補正できることはSYMPHONYでも有用です。SYMPHONYは、実際に利用可能で、設計時に意図した機能を体験できる現実的なツールとして蘇えらんとしています。この技術ニュースが発刊される頃には復活作業も完了していることと思いますので、ご興味のある方はぜひご来社頂き、ご体験頂ければと思います。

5.おわりに

当社には「ニーズがあるが世の中にないものは自分たちで作る」という創業時からの伝統があります。SYMPHONYのDSPシステムの企画などはその最たるもので、当時の業務内容とは全く異なる分野の開発も躊躇しない、そんな貪欲な仕事への取り組みと勢いがあったように感じられます。
また、CONCERT、SYMPHONYはお客様のニーズを具現化するだけに留まらず、当社の業務でも利用できるように様々な工夫が盛り込まれていました。お客様から要求された仕様を満たす製品・サービスを製作し提供するだけでなく、「自分がお客様の立場だったら」と考え、そのお客様の期待を超えるようなものを提供したい、そんな思いが関係者へのインタビューでも伝わってきました。
CONCERT、SYMPHONYをはじめとして、このような開発経験と、開発したシステムを使い込んで得られたノウハウが礎となり、当社の音響設計技術、音響調整技術は成り立っています。社内に脈々と流れている原形質、エッセンスともいえるもので、なかなか「これだ」と明示できるものではありませんが、一朝一夕に獲得できるものではないことは容易に想像できると思います。これに改めて光を当てるための活動「SYMPHONY復活プロジェクト」の結果、当時を知らない若手社員にも当社のコア技術が生まれ育ってきたプロセスやそのマインドにぜひ触れてほしいと願っています。
まさに温故知新、私たちもこれらの技術に触れ、更にはお客様のニーズと最新の技術に学び、お客様の期待を超えるような製品・サービスを提供できるように努めていきたいと、私もインタビューや本記事の執筆を通して思いを新たにした次第です。

図4 動作確認中のSYMPHONY
図4 動作確認中のSYMPHONY

参考文献・参考URL
[1]清水、「DASPを使った音場シミュレーションシステム」、NOE技術ニュース3号、1993
https://www.noe.co.jp/technology/03/03meca2.html
[2]崎山、清水、村田、「幾何音響理論に基づく可聴化シミュレーションシステム」、電子情報通信学会EA91-51、1991

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