新会社の草創期

日本音響エンジニアリング株式会社 特別顧問
茂田 敏昭

外注方法をめぐっての確執

新会社がスタートして、色々な考え方の違いが表面化しその運営方法について、意見の食い違いが見られるようになった。 その一つが外注方法についてであった。旧日東紡績音響工事課は、受注物件の施工について、施工と現場管理をともに一括外注とし、 特別の事情がある職種または職域については一部分割発注するという方法を採っていた。これに対して、私は、直接現場管理を行い、 施工は職種または職域別に分割して外注するという方法を主張した。それ以外の方法では責任施工の責任が果たせないと考えていたからである。 しかし、役員会では私の主張は受け入れられず、旧日東紡績音響工事課の採ってきた方法で運営することになった。

一括外注を建前にして、一部分割発注が混在すると、それぞれの工事範囲について範囲の確認と予算上の重複、 遺漏のチェックが難しい。特に共通仮設費と直接仮設費、取り合い部分の収まりと工事費(雑材及び手間)運搬費と小運搬費を厳密に分割するのは非常に困難で、 コストを膨らませる要因となっていくのである。

また、施主からのクレームも絶えなかった。現場常駐者不在によるコミュニケーション不足から施主が施工に不安感を持った上、 発注段階における協力会社への指示も徹底できなかったのだから、クレームが発生しても当然だったといえる。しかも、クレームにより、 手直しとなった場合でも、当社の指示が適切でなかったという理由で協力会社は積極的にその責任を分担しようとはしなかった。

これに対して私は、社内で一人浮き上がっても、スタジオ関係の物件で自分の主張通り、直接現場管理を行い、 職種または職域別に分割発注するという方法を実践していた。音響工事には多分野の優れた職人の協力が欠かせないと堅く信じていたからである。

勿論、一括外注した場合でも、多分野の職人の協力を得ることが可能だという意見は否定しない。しかし、 一旦当社が設計と責任施工で受注した工事から施工を切り離し一括外注した場合、現場管理業務が重複する可能性があり、 コストがかさむ。また、当社と外注先現場管理者との間に、品質や納期、採算面について、 意見の食い違いを生じ業務進捗の円滑さを欠く恐れもあったのだ。

会社は売上げや採算上の利益が無視できないことから、私の外注スタイルを黙認した。 当時の内装工事の請負価格は、平均的な事務所が坪30~50万円(有効床面積、空調・照明込み、躯体除く)であったのに対し、 録音スタジオは坪120~150万円と非常に付加価値が高かった。検収条件が抽象的で不明確という面はあったが、 そのリスクは音響調整費を認めてもらうことで十分にカバーできたのである。

印象深いサウンド・シテイ・スタジオ

会社から、一人浮き上がり辛い時期ではあったが、ことスタジオ関係の仕事には恵まれていた。 レンタルスタジオの新設計画が最盛期を迎えようとしており、それに伴ってスタジオ工事の設計や施工技術が脚光を浴び始めたのである。

中でも、印象に残っているのが1976年(昭和51年)に完成したサウンド・シテイ・スタジオである。 このスタジオが落成したときには、ご健在だった渡辺プロダクションの渡辺晋社長から「東洋一のスタジオができた」 とお褒めの言葉をいただいたほか、元請の鹿島建設からも昭和51年度優秀作品の協力会社として感謝状をいただいた。 何より嬉しかったのは、優れた技能を持つ職人集団と出会えたことであった。

そもそも、サウンド・シテイのスタジオは、鹿島建設から受けた仕事であった。 当初は下請という立場で設計のコンサルティングが主な依頼であったが、次第に遮音層の施工、吸音層、 さらには仕上げというように当社の担当範囲が広がっていった。それに伴って、 私は協力する前提として施主との打合せに設計段階から参加させていただくことを条件にするとともに、 音響内装工事にあたっては鹿島建設の了解を得た上で施主と直接交渉し、音響調整費の実費精算も認めていただいた。

一方、仕上げ工事を担当した、鹿島建設の孫請け会社にあたる技能者集団があった。 あるとき私はその会社の一人の職人から、直接、下地をやり直すようアドバイスを受けたのである。 その職人は、一部の下地材を取り外し、材料の小口と木目を見ながら、「日面と日裏の関係で、将来これは内側に反り、 これは外側に反ってしまう。いずれ仕上げ面に凹凸が生じることは間違いないし、空調が稼動すると、 その時期がさらに早まる恐れがある。だから仕上げはできない」と言うのだ。

このとき、元請と下請の関係で筋を通すなら、恐らく当社は、下地をやり直すことになったに違いない。

下地材の乾燥に関しては、早くから現場に材料を取り込み、十分な乾燥期間を置くなど配慮をしていたが、 日面、日裏に関してはまったく注意を怠っていた。仮に注意していたとしても、元口か末口かの判別さえ難しい端柄材では、 チェックできなかっただろう。そこで、その職人に丹念に手直しが必要な個所を指摘していただき、 下地担当の職人に手直しを要求したところ、その職人は姿を見せなくなってしまった。持っていた道具から察するところ、 仮枠大工だったようだ。

下地を担当していた協力会社に、代わりの職人を手配してくれるようお願いしたが、 言を左右ににして対応してくれない。やむなく、以前から顔見知りであった工務店に願いすることにした。この工務店とは、 過去に印刷所の騒音対策について相談を受け、その設計と施工立会い、完成後の測定を担当した経緯もあり、 職人についてはある程度理解していた。若い棟梁が、音響工事に興味を持っていたこともあって、対応していただけた。

どうにか手直しがすんだ後、仕上げを担当した職人から、「これからは下地も当社に任せたほうが安全ですよ」 と親切に言っていただいたが、私はそれには応じなかった。分割外注するほうが、それぞれの技能を最大限に引き出せる、 すなわち、仕上げとこれを支える下地づくりの職人が競い合う環境を創り出すことで、いっそう見栄えのする内装工事ができると考えたのである。

内装工事における木工事では、仕上げとその下地を同一業者が担当するのが常識になっていたのは知っていた。 一方、一般建築では建屋と造作は同じ大工でも仕事の内容や道具が違うことから、分離して発注するのが当たり前だった。 もちろん、いずれもこなす職人はいたが、大半はどちらかを得意にしていた。そのため、仕上げと下地の職人が互いに技を競い合うことで、 より素晴らしい作品が生まれる可能性が高いと期待したのである。

世界一の評価を受けた一口坂スタジオ

独立してスタジオ関係の仕事を手がけるようになって以来、私の中には「仕事の出来栄えによってお客様の心をつかみ顧客として末永いお付き合いをしたい」 といった気持ちが強まっていたが、サウンド・シテイの仕事で初めてその願いが報われた気がした。それは、間違いなく、 多くの優れた職人の技との出会いによるものであると感じていた。そして、その考えを決定づけたのが、完成当時、 世界一と評判になり、プロサウンドの取材を受けることにもなった一口坂スタジオの仕事である。

このスタジオの受注活動に関しては、サウンド・シテイの現場管理を行うかたわら密かに続けていたが、 そのためには下地づくりの協力会社を探し出すことが急務になっていた。 仕上げ担当の職人に負けない下地づくりができる職人を見つけることがどうしても必要だったのだ。

地元には、本所、新大橋、石原町、錦糸町、高橋などに多士済々の方々がおられたが、私は地元に疎く、 中々快くお引受いただく方がいなかった。色々なご縁を頼りにようやく一人の方に私の考え方をご理解いただくことができた。 ここに下地と仕上げを分離発注し、両者が競い合って職人技を発揮する体制が整ったのである。

実際の施工に入ると、私の想定していた通り、仕上げの職人に刺戟され、職人たちがお互いに切磋琢磨し、 異業種の職人も一段高いレベルの力を発揮した。サウンド・シテイに続き一口坂でも元請だった鹿島建設の所長は、 工務主任以下を集め、当社の工事進捗や出来栄えを見て、「その現場体制を見習え」と叱咤激励されたほどである。 まさにねらいどおりであった。

とりわけ、調整室とスタジオ間に設けられた 1.5H×6.0Wの二重ガラス窓(ガラス間隔0.85)の施工は特筆できる。 日本で初めて生産された19mm厚と15mm厚のガラスが使用されたのだが、その生産と加工、複雑な枠の取り付け、 仕上げそしてそのガラスのはめ込みと、それぞれの職人が最高の腕の冴えを発揮した成果と言えた。

こうして優れた技能の持ち主と一緒に仕事をすると、平凡な私でさえ互いに切磋琢磨する重要性に気づき、 仕事の出来栄えも次第に向上する。そして、お客様に喜んでいただくことで「ヤッタ!」と飛び上がりたいような気持ちや職人さんに心からありがとうという感謝の念が湧き上がってきたのである。 技術者冥利に尽きるとは、このことを言うのだろう。

いずれにしても、各社の協力が得られる体制を築けたことで、「あれもやりたい、これもやりたい」と夢が広がった。 と同時に、東京オリンピック(1964年)で金メダルを取った女子バレーボールのテレビ中継を見て、 優れたチーム力は優れたチームプレーによって生まれ、ひとりひとりがオールラウンドプレーヤーに徹することだと痛感して以来、 そうした会社の体制づくりを目指してきたことが間違ってはいないことも再確認できたのである。

エドワードへの弟子入りを考える

スタジオ関係の物件は、検収が人間の感性に左右されるという面があり、責任施工では非常にリスクが大きかったことから、 新会社は音響工事の施工請負にシフトしていた。ただ、売上げや採算上の利益が無視できないことから、 それまで現場経験を重ねた私が担当することは許されていた。何のことはない、新会社発足後も、 業務体制は日東紡績音響工事課時代とまったく変わらなかったのである。

これに対して1970年(昭和45年)、アルファレコード・スタジオの設計・施工でエドワードの仕事に触れて以来、 スタジオ関係の仕事に夢中になっていた私は、"音の仕立て屋"になるべくスタジオ関係の実施設計や現場管理の技術に磨きをかけたいと考えていた。 その想いは、サウンド・シテイ・スタジオや一口坂スタジオを手がけたことでいっそう強まっていた。

また、新しい体制づくりの面でも失望していた。責任施工を実施するには、 施工技術にすぐれた優秀な技能工を抱える専門業者と信頼関係を機軸に協力関係を築く必要があるのではないか。 こう考え、協力会社に対して得意な業種に絞り専門業者としての競争力を強化してほしいと提案したが受け入れられなかった。

現状のままでは、私の理想を追求できないことは明白だった。苦悩が深まる中で、 導き出した答えが自分の生きる道を別の世界に求めることだった。つまり、 心の師と仰ぐエドワードに弟子入りしたいと思うようになったのだ。

ただ、このまま新会社を去るのでは、共同代表権者としての責任をはたすことはできない。 できるだけ早く事業を軌道に乗せることが責務であり、そのためには現場管理者を育成することが急務であった。

といっても、育成能力のない私にできることは率先垂範以外にない。進んで現場管理に出向く中で、 具体的な物件に基づいて音響工事の設計とその進め方、施工と現場管理の具体的な内容に関して、 写真等の参考資料を添付したマニュアルを整備することで、その役割を果たそうと考えた。

対象として選んだのが、サウンド・シテイ・スタジオの物件である。一緒に仕事をしていたスタッフに事情を説明し、 具体的な資料の収集を依頼、現場完了と同時にこれをまとめ、施工資料として会社に提出した。

こうした努力が奏効して、1978年3月の取締役会では私の辞任が了承される。勇躍、 私はエドワード事務所に入る仮契約を交わしたのである。

相次ぐトラブルで辞任を撤回

そのまま会社を辞し、エドワードのところへ弟子入りしていたら、私の"音狂人生"も大きく変わっていたろう。 しかし、厳しい現実はそれを許さなかった。

新会社になって以来、売上高は大きく伸びていた。1977年の第二次オイルショックの影響は被ったものの、 第7期(77年9月~78年8月)の決算では、新会社発足当初の3倍を超える8億円弱の売上げを記録した。

しかし、利益率はかんばしいものではなかった。前にも述べたように、 一括外注を建前としてそこに一部分割発注が混在する中途半端な外注スタイルだったため、工事範囲の明確化、 予算の重複・遺漏のチェックが難しかったのである。

それに拍車をかけたのが、相次ぐトラブルの発生である。例えば、FX戦闘機の開発にかかわる実験室の施工もその一つである。 実験では、ピアノ線で吊るした戦闘機の模型に向かって圧縮ガスをマッハ2の流速で噴射することになっていた。 そこで30mm厚のコンクリートで壁を施工したのだが、実際に実験を始めると亀裂が入って手直しとなってしまったのだ。

さらに、悪いことは重なるもの。東京都の清掃工場の物件で火災が発生。千葉医大の聴検室等の施工でも、 検収で不合格となってしまう。あっという間に資本金の5倍ほどの負債を抱えることになった。

ここに至って、親会社である日東紡績からは、会社を整理するか私に陣頭に立って会社再建に取り組むかの選択を迫られる。

折りしも、私のもとには日本テレビの窪田様からサウンド・イン・スタジオ建設の話が持ち込まれていた。 私は会社を辞めるということで後任に仕事を引き継いでいたのだが、なかなか工事が進んでいなかった。そのため、 窪田様から「サウンド・イン・スタジオはサラリーマン人生を賭けた仕事だ。会社を辞めてもいいが、 それはスタジオを完成してからにしてほしい」と要求されることになった。

振り返ってみれば、この仕事で名を上げようとかお金を儲けようとか考えているわけではなかった。 ただ、いい音のする空間を造りたかったのである。そのため、スタッフに対しても、いい音のする空間を一緒に造る仲間と考えていた。 その仲間を捨てた形で渡米することは、私には耐えられなかった。

また、思い残していることもあった。録音スタジオを使うミキシング・エンジニアはある期間録音作業に携わると難聴になると噂され、 当事者もそれをある程度自覚していた節があることだ。その原因としては、一般の人たちに比べ彼らのモニターレベルが異常に大きく、 かつ作業が長時間に及んでいたことが挙げられる。ちなみに、聴力保護のための騒音の許容基準は、1日8時間で85dBとされている。 にもかかわらず、彼らの録音時のモニターレベルは、私が個人的に調べたところでは、これを15~20dB上回り、作業時間は10~12時間が普通だった。 これくらい高レベルまで上げないと、納得のいく音づくりができないと言うのである。

録音システムを自分の身体の一部のように自由に扱い、音楽の各ジャンルに造詣を深める必要があるミキシング・エンジニアにとって、 一人前になるには相当の年月を要するであろうことは容易に想像できる。その彼らが、職業病とも言える難聴によって、 その職業人生を短くしている様子は見るに耐えなかった。

才能あふれる彼らが長期的に活躍できる環境を整える意味でも、私は難聴が避けられるレベルまでモニターレベルを下げても、 いい音づくりができる録音スタジオの設計・施工を夢見ていたのである。サウンド・シテイ・スタジオの仕事で、 お客様から高い評価を受けたとはいえ、その域には達していなかった。

悩みに悩んだが、最終的には会社に残って再建に全力を尽くす覚悟を固める。こうして1978年11月、 正式に辞任の撤回要請を受け入れたのである。