コンサルタント協会の設立から新会社発足へ

日本音響エンジニアリング株式会社特別顧問
茂田 敏昭

日本音響コンサルタント協会の設立

昭和40年代に入ると、音響工事の経験を買われ、私のもとには音楽録音スタジオの実施設計と現場管理の仕事が次々に舞い込むようになった。

一方、昭和43年に騒音規制法が施行されたのを契機に音響分野が大いに注目されるようになり、 色々な会社が音響工事会社を立ち上げ、乱立の様相となった。そのことが、音の問題に悩むお客様を一層困らせることになる恐れがあった。

また、こうも考えていた。音で苦しむお客様を患者に例えると、私たちのような音響技術者は町医者的存在で、 大手術はできない。大手術に対応できるのは、音響技術の大病院と言えるNHK放送技術研究所や大学の研究室といったところである。 誤った診断をしないためにも、そうした大手と提携することが不可欠と思っていた。

折りしも、NHKの音響部長をしておられた永田穂先生が技術研究所を辞め、独立したい意向があることを知った。 そこで、永田先生を会長に、大手の研究機関と私たち音響技術者とのパイプ役として業界団体の設立を図ったのだ。 それが日本音響コンサルタント協会である。70年(昭和45年)には、40社ほどの会員を集め設立に漕ぎ着ける。

しかし、結果から言えば意図したような成果をあげることはできなかった。

エドワードとの出会い

この時期、日本音響コンサルタント協会の設立に奔走する傍ら、 私の"音狂"人生に大きな影響を及ぼす設計者との出会いもあった。それが、アルファレコードスタジオの設計を手がけたジョン・フィリップ・エドワードである。

彼はもともと都市設計を手がけたこともある建築家だったが、 音響の世界に魅せられスタジオ設計の道に足を踏み入れた1人だった。 レコーディングスタジオの設計で優れた実績を持つ「ウェストレイク・オーディオ」(米国)に一時在籍していたほか、 ミキシングエンジニアから音響設計に転身したトムヒドレーとも一緒に事務所を構えたこともある。 ハリウッドのほとんどのスタジオは、彼が手がけたと言ってもいいほどだ。

70年(昭和45年)、その前年にヤナセの資本で設立されたアルファレコードが、 スタジオを造るにあたって日本ではなかなか満足できる空間づくりができる設計者がいないことから彼に白羽の矢が立ったのだ。

まず、彼の仕事は、施主へのヒヤリングから始まる。それも、徹底的に質問攻めにするのである。 その雰囲気はオーダーメイドの洋服を仕上るため、お客様に要望を聞いていく町の仕立て屋さんそのものだった。

例えばドラムエリアでは録音関係者を呼んできて、どんなドラム編成にする予定なのかを聞く。 その上で、アメリカではオクターブタムやサイドシンバルのセットが主流になっていることなどを写真で示しながらサジェスチョンを投げかけるのだ。 担当者としては、彼に一目置くことになる。

余談だが、日本でも10年くらい後には彼の示したオクターブタムやサイドシンバルが当たり前になっていくのである。

ピアノブースにしても同様だ。どのメーカーのピアノを使うつもりなのかを確認するため、 日本ということもあってまず「ヤマハ?」と聞いてくる。そして、フルコンにするかどうかを問いかけ「フルコンだ」と答えると、 「ヤマハだったらこのくらいで、ベーゼンドルファーならこうだぞ」とピアノの大きさを示していく。彼はメーカーごとのサイズをすべて覚えていたのである。

それだけではない。スタジオづくりに関する建築材料に関しても、空調から照明、敷物、ドア、ガラス、 さらにはペイントまで、ありとあらゆることに精通していた。いい音の空間をつくるために、ここまでするのかという驚きと感動で、 私はすっかりエドワードの仕事振りに惚れてしまった。それが縁で、エドワードに弟子入りするための仮契約まで結ぶことになるのだが、それは後のこと。

以来、私も音の仕立て屋さんになるべく一生懸命勉強を始め、アメリカにも足を運ぶようになるが、そこでまたショックを受ける。 設計では歯が立たなかったが、職人技は日本のほうが上だろうと思っていた。

ところが、アメリカのスタジオを見学してみると、木造の内装工事における収まりなど日本に負けない職人技が繰り広げられていたのである。 そこで、さらに詳しく調べたところ、社寺仏閣など飛鳥時代から続いている日本の伝統的な建築技術は、すべてアメリカの文献で取り上げられていたのだ。

私は苦労して日本の大学で学んだが、それらのことは全然教えてもらえなかった。 そんなことも契機になって、日本古来の建築物に興味を持つようになり、京都や鎌倉など社寺仏閣回りを始める。 三千院の音響効果の素晴らしさに感動したり、鎌倉の円覚寺では天井裏まで上がったりしたことは第1回でも述懐したとおりだ。

とにかく、エドワードのようになりたくて、いろんなことを勉強した。例えば能の舞台には必ず甕(かめ)がいけてあるものだが、 いざ造るとなったらどれだけの人が造れるだろうか。良く鳴る甕を造るには、山砂と粘土をよく混ぜしっかりつき固めることが必要になる。 ミミズやモグラが入ってくるようなつき固め方では、決していい音は鳴らないのである。

そして、腕のいい職人さんの技を存分に引き出すことのできる音の仕立て屋さんになることで、職人さんに夢を与えたいと考えていた。

大手の誘いを断りニチオンを設立

好きな音の仕事で食っていければと始めた設計事務所であったが、いい設計者にも恵まれたおかげで仕事は潤沢だった。 それに伴って、昭和40年代初めにはスタッフの数が10名を超えていたと思う。

しかし、私のスタンスとしては社長と従業員といった縦の関係でなく、 「いい音のする空間」をつくるための仲間という意識だった。そのため、社長と呼ばれるのを良しとせず、 いつの間にか「チーフ」と呼ばれるようになっていた。そんな状況もあって、スタッフには割りと何でもフランクに相談していたのである。

しかし、合併の話だけは別だった。68年(昭和43年)のことだったと記憶しているが、 ビクター青山スタジオの建設で鹿島建設と仕事をする機会があった。騒音規制法の施行もあって音響技術が注目を集めていた時期でもあり、 一緒にならないかとの誘いを受けたのである。

鹿島建設のような大手企業と一緒になれば、確かに経営は安定する。しかし、思うような仕事ができなくなる可能性も大きい。 スタッフもきっと理解してくれると考え、私の一存で断ってしまった。

ところが、私の考えは甘かったようだ。この話を後で知ったスタッフの中には、 相談しなかったことを不満に思った者もいた。結局、4名が退職する事態に発展する。

また、71年(昭和46年)にも三菱エンジニアリングから同じような誘いを受けたが、 この三菱エンジニアリングからの誘いも四日市まで出向いて断ったのだが、やはり、数名のスタッフが設計事務所を去ることになった。

「寄らば大樹」といった考え方は、どうしても自分には納得できなかったが、 資本金50万円の有限会社に不安を感じるスタッフの気持ちも解らないではなかった。そこで、72年(昭和47年)3月、 会計事務所のアドバイスを受け、資本金500万円の新会社を設立することにした。 それが現在の日本音響エンジニアリング株式会社の前身となる株式会社ニチオンである。

ニチオン時代のうれしい思い出

ニチオン時代は、大変な思いも随分したが、うれしい思い出もあった。 一つが10年越しでソニーの仕事を開拓できたことである。東芝や日立、パイオニア、ビクターといった電機メーカーとは次々に取引できたが、 ソニーだけはどうしても敷居が高かった。

きっかけは、日本音響コンサルタント協会の設立などを通してお世話になっていたNHK技術研究所の中島平太郎先生(後にアイワ社長)と音響部長だった永田先生のお陰である。 中島先生が技研を辞め、ソニーに技術担当役員として入社。音響の研究施設がなかったことから、芝浦の研究所を建設するにあたって、 やはり独立して設計事務所を始められた永田先生に設計を依頼、実施設計については、私に手伝って欲しいということになった。 こうして念願のソニーとのご縁ができたのである。

そして、もう一つの楽しい思い出は73年(昭和48年)、 当時ボストンフィルハーモニーの常任指揮者だった小澤征二氏のリハーサルを私1人で聴く機会があったことだ。

日本の三千院が優れた音響効果を持っていることはすでに述べたが、 アメリカ建国と同じくらいの歴史を持つ同フィルハーモニーのスタジオも負けずに素晴らしい音響効果を発揮していた。 観客席のどこで聴いても、オーケストラが私を取り巻いているように聴こえるのだ。

しかも、きれいな奥様からはコーヒーをいれてもらえるし、ブロマイドには本人のサインまでいただいた。本当に夢のような1日だった。

音の世界にどっぷり浸かったせいで、苦労することも少なくなかったが、それ以上に楽しい思い出もたくさんある。

日東紡と合併へ

ニチオンを設立したことで、大手と一緒になることなく自立を貫くことを内外に示したつもりだったが、 その設立が日東紡と合併する呼び水となるのだから、人生とは皮肉なものである。

そもそも私と日東紡との出会いは、区役所時代にさかのぼる。当時から日東紡では、 吸音材となるロックウールを製造する岩綿製造課があり、そこに建設会社に勤める従兄弟の旦那が出入りしていた。 あるとき、その旦那に「素人でもわかる無響室の説明書が書ける設計屋さんはいないか」という話が持ち込まれた。 設計図を見てもよく解らないので、どのように無響室ができているのかを解りやすく解説したマニュアルがほしいというのだ。

そこで、小中学校の放送室や音楽室の設計の規格化を推進していた私にお鉢が回ってきたのである。

こうして始まった日東紡との付き合いは、録音スタジオやメーカーの無響室の実施設計や施行管理を手がけるようになって本格化する。 高嶺の花だったロックウールを気兼ねなく使えるようになったのである。ニチオンを設立する際には、出資をして頂くほどに関係は深まっていた。

私もニチオンと日東紡績建材部設計室の2つの肩書きで奔走。

そうこうするうちに、いっそ合併してはどうかという話が日東紡から飛び出した。 鹿島建設や三菱エンジニアリングとの合併話で懲りていた私はスタッフに対して「日東紡との窓口にはなるが、みんなの決めたことには口出しをしない」と宣言した。

しかし、内心では独立志向が強かった。金銭よりも、自由にいい音のする空間づくりができればそれでよかったのである。

そこで、社員会の会長を、東京駅から葉山に向かう在来線の車中で説得を試みたこともあるが、 結局、社員会の総意は「寄らば大樹の陰」という考え方へと傾いていったのである。

また、お世話になっている石井先生にも相談に伺った。が、先生からは「お前は浪花節だから、最後には社員の言うことを聞かざるを得ないだろう」と予言される始末。 そして、最後に会うことになったのが、日東紡の鈴木常務(後に社長)である。京橋の料亭に一席を設け、合併に対する私の想いをとうとうと語った。

ところがである。鈴木常務は、東京大学の空手師範を務めた方で、実に懐の深い人物。 私にしゃべらせるだけしゃべらせておいて、やおらぎゅっと手を握り「俺に身柄を預けろ」と迫ってきた。 正直、「これは勝てない」と思い合併を観念した瞬間だった。

こうして74年(昭和49年)4月、ニチオンと日東紡績建材部音響工事課は合併。 資本金1500万円で日東紡音響エンジニアリング株式会社が誕生したのである。

音響ハウスでのクレーム

1974年(昭和49年)4月、晴れて日本音響エンジニアリングは、音響工事の設計と責任施工を売り物にスタートすることになったが、 2つの会社が一緒になるということは規模に関係なく大変なことと言えた。当社も例外ではなく、合併の苦労を味わうことになる。

新会社のスタートにあたっては、けじめをつける意味もあって、設立のお披露目パーティを開いた。 その席上、来賓としてお招きしていた平凡商事の平緒社長から、祝辞の中で「音響ハウスのスタジオ工事を合併の餞(はなむけ)として新会社と契約する。 ついては、責任施工で契約する第1号にしてほしい」とのありがたい言葉をいただいた。以前からスタジオ建設の計画があることは伺っていたが、 これで正式に当社が内装工事を受注することになったのである。

こうして音響ハウスの工事は、設立から間もない5月から始まった。ところが3ヶ月経過した8月、思わぬ事態が持ち上がる。 電気設備と空調設備を請け負っていた業者が「現在の進捗状況では、12月初旬のオープンは難しい」と平緒社長に訴えたのだ。 すでに12月オープンを公言していた平緒社長は、心配のあまり状況を確認したいと当社に連絡された。

慌てたのは当社である。これに対応するため、伊藤社長(合併新会社の初代社長)と私、そして工事担当者と3人、 押っ取り刀で平緒社長のもとに駆けつける。挨拶もそこそこに「色々手違いが生じ、ご心配をお掛けして申し訳ない」と言い訳したが、 平緒社長からは「作り手の論理をユーザーに押し付けるな」と一喝されてしまう。当社からの釈明が、 納期の遅れは社内事情のように誤解されやすい内容だったため、平緒社長の怒りを誘発したのだ。

私にとっても、この話は寝耳に水だった。音響ハウスの仕事では、私は1年以上も前から相談を受け、 合併前には実施設計と積算を完了していたが、新体制へ移行したこともあって、うかつにも施工には全くタッチしていなかったのである。 しかし、このままでは12月初旬のオープンに間に合わないことは間違いない。そこで、先方の担当者と善後策を相談。 オープンに間に合うよう作業工程を練り直し、その指揮及び責任の一切を私が担当することで平緒社長の了解を取り付けた。

それからは戦場のような慌しさだった。通常は、下地の工事が終わってから電気設備工事や空調設備工事をするものだが、 それではとても間に合わない。そこで、配線用の配管や空調のダクトを取り付ける下地の部分だけを先行。 即ち、下地工事と電気設備工事と空調設備工事を同時進行させたのである。昼間は電気設備と空調設備の工事を優先させ、内装工事は夜間に行うことにした。

当然だが、天井の遮音層や吸音層の下地が未完の段階に、配管や空調のダクトを取り付け、 その面の仕上げを先行するのはかなり厄介な仕事だった。が、幸いにも各業者の協力を得ることができ、 1ヶ月ほどで所定のタイムスケジュールにのせることができた。

また、検収でも紆余曲折があった。お客様の了解を得るのに、約2週間の音響調整期間を要したのである。 オープン前夜、作業員ともども明け方近くまで場内清掃を行った記憶があるが、どうにか納期に間に合わせることができ、事なきを得た。