私の夢 木村 翔

去年は東京ですばらしいオペラを5回聞いた。6月に5年ぶりに来日したメトロポリタンオペラは、 1年くらい前からコンサートに行くたびに大量にもらうチラシの中に入っていたパンフレットを見て、 是非とも聞きたいと思っていたので、セット券発売の日にチケットぴあに並んで比較的良い席を買った。

東京にはまだ欧米のような本格的な舞台を持つオペラハウスはなく、 東京文化会館とNHKホールで我慢するほかないが、これらのホールは、 メトロポリタンオペラハウスやバイロイト祝祭劇場やウィーン国立歌劇場のような、 それぞれが特徴を持ったオペラハウス独特の雰囲気はないものの、 ホール自体の響きはオペラには適しているので、オペラそのものの音を楽しむには十分である。(舞台屋には不満かもしれないが。)

話は変わるが、1989年9月オーチャードホールがオープンしたとき、 バイロイト音楽祭日本公演ということで、バイロイト祝祭管弦楽団と合唱団を含めて、 ワグナーの楽劇「タンホイザー」をバイロイトの祝祭劇場で行われるままの姿で公演する企画が立てられた。 御承知のようにオーチャードホールは、サントリーホール、東京芸術劇場大ホールと共に、 東京の代表的な本格的コンサートホールの一つであるが、高さ16.5m、総重量120tの巨大な三連の可動音響シェルターを ズーム式にステージ後方に格納し、プロセニアム上部に天井裏から可動の壁を下ろしてプロセニアムアーチをつくり、 さらに舞台床の傾斜機構とオーケストラピットを使用すれば、中規模のオペラ公演が可能になる。 丁度この年は、第13回国際音響学会議(13th ICA)がユーゴのベオグラードで開かれるので、 出かけることにしていたが、その前に研究室出身の音楽マニアであるK君から、 「ワグナー協会に申し込んでいたバイロイト音楽祭の全公演の切符が手に入ったが、都合で行けなくなったので先生行きませんか」 という電話があり、同じ指揮者、オーケストラ、歌手の「タンホイザー」を、バイロイト祝祭劇場とオーチャードホールで、 半年の間に聞き比べて、ホールの比較ができるのは、またとない機会と考え、ICA出席を最後の2日間だけにして、 先にバイロイトに向かい、1週間滞在して、シノポリ指揮のタンホイザーと、バレンホイム指揮、クッパー演出のラインの黄金、 ワルキューレ、ジークフリート、神々のたそがれを聞いた。

バイロイトで聞いたタンホイザーは、その後「リング」を続けて聞いたこともあり、 あれだけの大舞台でやるには、全体的に軽い感じがしたが、1幕のバレーと2、3幕の合唱が良く、 またエリザベートを歌ったチェリル・スチューダーのソプラノがすばらしかった 。その半月後、オーチャードホール落成記念のバイロイト引っ越し公演でのタンホイザーは、 バイロイトと比較して舞台の特に奥行きが狭いので、廻りをカットした写真のような感じがしたが、 シノポリ指揮のオーケストラの音は、バイロイトよりもはるかに美しく響いた。すばらしい弦の音色、 管の響きで、豊かな音に包まれるような感じがし、歌手では、スチューダーのエリザベートが、 バイロイトと同様に十分な声量のきれいなソプラノを聞かせてくれ、ヴァーサルのタンホイザーはバイロイトの時よりも良かった。 これはやはりホールの音響の勝利かと、関係者の一人として嬉しかったが、もともとここはオペラハウスではないので、 舞台の施設や楽屋(この時はミュージアムを臨時の楽屋に使用した。)が劣るのはやむを得ない。 しかしホールの音が良ければ、オペラそのものは十分に楽しめることを実感した。

ここで、やっと最初の話にもどるが、メトロポリタンオペラは、 何といっても世界中で一番スター歌手を揃えているし、1988年に来日した時の3公演(ホフマン物語、フィガロの結婚、イルトラヴァトーレ)、 1989年にニューヨークのメトで聞いた5公演(ジェームス・レヴァイン指揮、オットー・シェンク演出のラインの黄金、 ワルキューレ、ジークフリート、神々のたそがれ、愛の妙薬)がいずれもすばらしい公演だったので、 去年の来日公演には何としても行きたかった。

続々と来日する世界のオペラ劇団の中には、日本では手を抜くことがあり、本場で聞くのと違って、 がっかりすることがあるが、メトロポリタンはそれがないのが良い。

1993年6月の公演は、ルチャーノ・パヴァロッティ、キャスリン・バトル、ジーノ・キリコの「愛の妙薬」 (1989年にメトで聞いた時と全く同じ配役)、プラシド・ドミンゴ、アプリーレ・ミッロ、ウラジミール・チェルノフなどの「仮面舞踏会」、 ギネス・ジョーンズ、ジェームス・モリスなどの「ワルキューレ」(ジェームス・レヴァイン指揮、オットー・シェンク演出)であった。

パヴァロッティやドミンゴのテノールは、すばらしいの一語に尽きるうっとりとするような芸術であるし、 ミッロやギネス・ジョーンズ、キャスリン・バトルの美しいソプラノ、情感のこもった声量には体がしびれるような快感を覚える。

去年は、さらにリッカルド・シャイー指揮のボローニァ歌劇場「リゴレット」(レオ・ヌッチ、ルケアーナ・セッラなど) とジリ・コート指揮のベルリンドイツオペラ「トリスタンとイゾルデ」(ルネ・コロ、ジャニス・マルティンら)を聞いたが、 いずれも満足すべき公演だった。

国内外のオーケストラは、オーチャードとサントリーで、去年は色々と忙しくて、例年よりやや少ないが、 20回位聞きに行った。こちらは話が長くなるので、又別の機会に譲りたい。

いずれにしても、世界中の音響の良いホールで、 世界の一流芸術家の生の音を毎年のように聞くのが、やや現実的な私の夢である。

【木村 翔氏】
1931年生まれ。東京大学大学院建築学専攻修了。 日本建築学会副会長、日本音響学会評議員等を歴任。工学博士。日本大学理工学部教授。