エッセイ(私の夢)

三浦 種敏

三浦  種敏

最も純朴な夢というのは子供の頃の夢であろう。私の子供の頃は大工さんになりたいなあと思っていた。 考えてみると、その頃わが家は、大工、左官、トタン屋、ペンキ屋などの職人が頻繁に出入りしていた。 祖父の普請道楽の結果だったろう。そんな環境の中で作業現場と遊び場を取り違えて、大工の鉋、鋸、のみ、 釘打ちのさばき方を見たり、自分で板の切端を寄せ集めて玩具らしきものを作ったりした。 トタン張りの職人が器用な手つきで口に含んだ釘を次から次へと取り出してトントン打つのを傍らで見たくて屋根に登り、 家人にしこたま怒られたことを覚えている。子供には出来ない名人芸を見ているうちに、それがあこがれになり、 素朴な願望となったのであろうか。夢というのはそういうものであろう。 しかし、同じ環境でも、なぜか兄も弟もそんな願望を抱いたふしは全く見られなかった。

時移って、私も中学校(旧制)の高学年になり、担任の先生から進路のアドバイスがあった。 「お前は将来法科に進んだ方が良いだろうから、高校は文科をねらったら」というお話しであった。 一般に「末は大将か大臣か」というのが当時の風潮だった頃である。 その時「私は技師になりたいから理科にします」と返事したことを覚えている。 三つ児の魂が青年期まで尾を引いたのかと。高校も卒業間際まで大学は建築科と夢みていたのは事実である。

しかし、大きな転機が訪れた。時代の流れは日本を太平洋戦争の方向へ追い込んでいた。 次々と陸海軍の戦場に出陣していった先輩達から生々しい戦地情報も耳に入る。 私は厳しい現実に直面して悩んだが、基地設営よりもエレクトロニクス技術で奉公と、 技師は技師でも電気工学に転換を決意した。大学一年生の初冬、海軍は遂にパールハーバーを攻撃。 そこで海軍技術学生を志願し、血気にまかせて密かに海軍技術中将という夢にとりつかれていたのである。

終戦!夢も僅か2年でバブルの如く消え去り、呆然と郷里に引きあげる。 田舎では次男坊の生きる道は見い出せない。そこへ突然、逓信省から一通の電報を受け、 11月に東京五反田の逓信省電気試験所に半信半疑で出頭した。 「お前は職業軍人だったから雇員としてで良ければ採用する。 仕事は通信復興の一環として新型電話機を至急に開発すること。」と云われた。 短期現役だった友人なみに直ちに任官はできないが、混乱の世で職が見つかっただけでも幸運であった。 仕事の内容に全く選択の自由はない。私に与えられたのは、

  1. 従来「音の大きさ」に重点をおいた電話を「通話明瞭度」に主眼をおいたものに改良するには周波数特性をどうすれば良いか。
  2. 電話回線の損失配分はどう設定すべきか。
  3. 「音の大きさ」から「通話明瞭度」へと着眼点を変更するに伴って、新しい日本主通話標準装置を設定すること。

と短期から中期にわたる3つのテーマで、これが私の音響技術者として運命を決定づけることになったのである。

当時は現実と戦うだけで、夢らしい夢も描けなかったのは事実である。 上記のテーマは15年余の年月を費やして何とか実現できた。次に待っていた宿命は、 メーカーでの15年にわたるオーディオの研究、次いで15年の大学での生活と続いた。 電話で多少勉強した聴覚の研究がその後のオーディオ30年の研究の糧となったと思う。 反省してみるとその間の目標(夢?)は、音の物理的面と複雑な聴感とを結びつける手法はないものか、ということだったろうか。

こうして辿ってみると、夢というものは環境と個人の性格の反映であろうか。 そしてその環境は我々の手の届かない宿命的現実で変遷してゆくのだから、夢も運命とともに生まれては消え、 消えては生まれることを繰り返すものなのであろう。

【三浦 種敏氏】
1920年生まれ。東北帝国大学工学部卒。 日本電信電話公社電気通信研究所、(株)日立製作所中央研究所を経て東京電機大学工学部教授、 同大学総合研究所教授、日本音響学会会長等を歴任。工学博士。