エッセイ(私の夢)

私の夢 田島 眞

私の夢と云うテーマで何か書けと書面をもらい、 [夢]と広辞苑を開けば「未来について空想すること」とあり、空想ならばと、稿をとることにしました。

私は昭和3年に日東紡績に入社し、郡山絹紡工場で見習生として、絹糸の運搬から機械の保全、 空管の運搬と一通りの作業を行っていました。

当時の日本は、アメリカの金解禁恐慌時代による不況のどん底で〈大学は出たけれど〉という映画が流行って、 納豆売りをしている大学卒業生がいると噂される時代でした。昭和4年の暮れの頃でしたか、 日東紡績の初代の片倉三平社長がアメリカから、ビストラという糸を持って来られ、これをこれから研究して作るということになりました。

当時、私の上司であった根岸さん(現根岸常務の厳父)と五十嵐斉君と3人で、 根岸さんの母校上田蚕糸専門学校(現信州大学工学部)に出向を命ぜられ、繊維研究室で、 ビストラの分析から始め、ステープルファイバーを作る事に成功しました。 初めて素麺のような糸状のものが出来た時には手をたたいて喜び合った事を覚えています。 昭和5年の夏頃からは、日一日と進歩した細い繊維が出きるようになり、昭和8年にはビストラに匹敵するものとなりました。

昭和9年に福島工場の片隅に日産1tの試験工場を作り、続いて10tの工場が出来、 12年には冨久山工場が建設されて日産20tを生産するようになり、ステープルファイバー全盛時代を迎え、 全国で数社が製造を開始し、更にナイロン、ビニロン、テトロン、ポリプロ等、多くの繊維が出来て〈夢の実現〉の時代となりました。

昭和12年に日支事変が起こり、続いて大東亜戦争へと続くころ、日東紡績では無機繊維に主力を向け、 岩綿繊維、ガラス繊維を作るようになり、海軍の軍需工場として船舶の断熱材を生産していました。 やがて終戦を迎えても、進駐軍の上陸により蒲鉾兵舎の建設や物資輸送の貨車の断熱材として、広範囲に活況を呈していました。

これらの断熱材を、初めて音響用の吸音材として使用したのは昭和32年の頃と思います。 これは、鉄製の楔状フレームに解繊した繊維を詰めて、 ワイシャツと同価格の高価な袋をかぶせて吸音材としたのが一番初めだったと覚えています。

顧みれば30年以上たった現在も、あの当時と比べ、鋼線を亜鉛メッキしたものが塩ビのコーティングに変わり、 1山が3連山になった程度の変化で、これは我々吸音楔に携わってる者が、夢をもって向上させねばならない問題だと思います。

この吸音楔については、一つ具体的な夢があります。フレームはFRPで篭状に作り、 それにFGの切断したものを詰め、表面を不織布の様に蜘蛛の巣状の繊維を吹き付けて表面処理をする、 これにより吸音率も向上し品格もあがると考えられます。また、取付も従来のネジ止めの爪は付けずに楔の谷を使い、 Wバーの代わりに左官用のスミデッキを利用して取り付ければ、輸送中の傷みや取付の手間も半減されると思われます。 これは只の夢でなく実現させたいと切望していることろです。

最近の医学の進歩により、脳波測定とか、心電図測定とか色々な機器が出来、 様々な測定・検査が簡単に行えるようになりましたが、我々音に関する仕事に携わる者も、 この方面へ更に力を注ぐ必要があると思われます。

例えば、言語明瞭度測定器というような機械を作り、世の中の指導的立場となる人は、 言語明瞭度何点以上でなければならないと云ったことを夢想したりします。 歴代の総理の演説を聞いた時、内容の如何は別として、国民に訴える力、理解させる力、 説得する力は言葉の明瞭度により大きく変わるもので、指導者には最も大切な事柄でないかと思います。

日本列島は北から南へと長く、方言も沢山ありますが、 この方言も明瞭度を重視することで、少しづつ変化していくかもしれません。

人間社会を取りまく音の環境は段々変化しています。 これに合った音の世界を作って行くのが我々の仕事であり、また大切な夢ではないかと思います。

また、このすばらしい音の世界を全ての人に享受してもらえるようにすることを、 音に携わる我々の手で行うことが最大の夢であり、その夢の実現を追い続けて行きたいと考えています。

【田島 眞氏】
1910年生まれ、昭和3年日東紡績に入社。その後、化学繊維、 ロックウールなどの製造・研究等に従事。現在、防振ゴムの製造を行う鹿本技研株式会社相談役。