技術部 小林 照二

1. まえがき

OSS( Orthostereophonic System)は様々な音場を収録し、再生することを目的として作られた立体音場収音・再生システムです。
私たちは、日常の生活の中で様々な音と共に暮らしています。都会では日夜を問わず常に車の音や店頭のBGMなどの様々な街の騒音に囲まれています。
また、自然の中では木々のざわめきや川のせせらぎなどが溢れています。これらの音は自分の視線の方向だけでなく、 前後左右あらゆる方向から到来してきます。このような音環境を自然に立体的に再現する方法なないのでしょうか。
建築音響の分野ではいまだに解決されていない問題が数多く存在します。例えば、コンサートホールなどの設計・施工において、 その建築物の音場がどのようなものになるのか、つまりその中で楽器を演奏したりスピーカから音を出した場合にどのような音がするのかある程度は予測ができるのですが、 細かい部分で、最終的には担当技術者の経験に頼らざるを得ないのが現状です。これは、技術者がコントロールする部屋の形状や使用する材料などの物理特性と、 好き嫌いなどの人間の主観量との関係が十分に解明されていないことに起因すると考えられます。
これらの物理特性と主観量との関係を調べるためには様々な音場の評価、すなわち聴感実験が必要になりますが、 これまでは多数の受聴者が色々な場所に存在する音場に出向き、実際に試聴する必要がありました。しかし時間的・経済的に効率が悪く、 比較評価を行なうことは不可能です。また人間の自然な両耳受聴状態、二つの耳で音を聴くということを考慮し、 物理量の測定と聴感実験のための音場の収録を効率良く行なうシステムが必要とされていました。
このような背景をもとに、OSSは音場や音響機器の系統的な評価を行なうための基準的音響伝送系、 すなわち人間と音との関係を調べるためのツールとして三浦種敏東京電機大学総合研究所教授によって提案され、 東京電機大学電気通信工学科音響情報研究室において同教授指導のもとに研究・開発され発展してきました[1],[8]
既刊の技術ニュースでいくつかのOSSの応用例を掲載させていただきましたが、本稿ではシステムの概要、原理をまとめ、 最後にOSSを用いた応用について述べさせていただきたいと思います。

OSSの原理の図
図-1 OSSの原理

2. 原理およびシステム構成の概要 [2],[3],[5],[7],[8]

立体音場再生は、ある音場における受聴者の耳道入口の音を再生音場において再現することによって実現されると考えられます。 OSSはこの原理に基づき、基本的に次の二つの機能を実現することによって構築されています。

1) 音場を忠実に収録する。
2) 収録した音を忠実に受聴者に再生する。

すなわち、原音場における受聴者の左右外耳道入口の音圧をおのおのPL、PRとし、OSS再生音場における左右外耳道入口の音圧をおのおのSL、SRとすると、

PL = SL ... (1)
PR = SR ... (2)

が成り立つときに原音場と同じ受聴状態が再現されたことになり、理想的なOSS再生状態となります。

1)を実現するために、OSSでは専用の HATS (Head andTorso Simulator)を用いています。ここでHATSとは、 従来の頭部のみを模擬したダミーヘッドマイクロホンに胴体を加えたもののことをさします。

2)を実現するためにOSSでは、OSS Networkと呼ばれる再生等化フィルタと二つのラウドスピーカを用いています。

このOSS Networkでは二つのラウドスピーカ再生によるクロストーク成分のキャンセリングおよび再生系の特性をフラットに補正する処理を行います。

これらの技術をもとにしてOSSは構築されており、

  • HATS
  • OSS Network
  • ラウドスピーカ
  • 受聴者

から、図-1に示すとおり構成されています。

実際の機器構成例を図-2、図-3に示します。

OSS機器構成例(収録系)の図
図-2 OSS機器構成例(収録系)

OSS機器構成例(再生系)の図
図-3 OSS機器構成例(再生系)

3. HATS [1]-[9]

立体音場再生技術は当初、バイノーラル録音・再生として発展してきました。 バイノーラル録音とは、人の頭をまね、左右の耳にあたるところにマイクロホンを取付けたダミーヘッドマイクロホン(または肩や胴体まで模擬したHATS)を用い、 収録した音をヘッドホン再生し立体音場を作り出そうとするものです。このダミーヘッドの歴史は1933年に始まったといわれており、 この年に世界で初めてのダミーヘッドがアメリカで作られました。その後バイノーラル録音・再生は、 1970年代に注目を集めましたが当時はダミーヘッドを設計する手法や評価方法が確立されておらず、 やがて1970年代後半から実用化が進められるようになり、またテレビ、ラジオやゲームなど様々なソフトの作成にも用いられるようになりました。
OSSでは本システムのために開発され、バイノーラル録音・音場計測用として株式会社高研から販売されているHATSを音場収録に用いています。 このHATSは、OSSで用いるためのHATSに関する基礎検討の結果、 人間の感じる定位感・拡がり感などが主に両耳に入ってくる音の違いから認識されているのではないかという考えに基づいて設計されました。 そして人間の平均的な寸法、単耳音響特性などのみによるのではなく両耳間差特性などにも着目して日本人成人男子36名のデータをもとに設計されています。 録音マイクには低雑音、広ダイナミックレンジを確保するためにB&K4003スタジオマイクロホンが用いられていおり、 また左右差や個体差を少なくするためにCADと三次元切削システムを用いて製作されています。
OSSはこのHATSを用いて立体音場収録された音源を受聴者の耳へ、すなわちHATSの左チャネルの出力信号を受聴者の左耳へ、 HATSの右チャネルの出力信号を受聴者の右耳へ提示することによって立体音場再生を実現しています。

4. OSS Networkおよび再生方式 [2]-[5],[7],[8]

従来のバイノーラル録音による音源の再生にはヘッドホンが用いられていましたが、正面方向の音像が頭内定位してしまうこと、 鼓膜と音源との距離が近く装着時のずれによる影響が大きいことなどからOSSではラウドスピーカを再生に用いています。 二つのラウドスピーカで再生する場合、クロストーク成分が発生しますが音場再生の原理から考えるとこのクロストーク成分は不要なものとなります。 またHATS収録の音源を受聴者に提供するために再生音響機器の特性をフラットに補正する必要があると考えられます。

HRTFの測定の図
図-4 HRTFの測定

このような二つのラウドスピーカを用いた立体音場再生の問題を解決するために、 OSSではOSS Networkと呼ばれる再生等化フィルタを用いています。 OSS Networkは受聴者の頭部伝達関数(HRTF: head-related transfer function)をもとに作成されます。 このHRTFは、再生音場において受聴者の両耳にマイクロホンを取付けて測定します。これらのHRTFをもとに、 受聴者の左耳にはHATSで収録された左チャネルの音のみが、右耳には右チャネルの音のみが提示されるように、 受聴者のHRTFが左右非対象であることを考慮して以下に示す式を用いてOSS Networkのフィルタ係数をソフトウェアで設計します(図-4、図-5参照)。

OSSの構成の図
図-5 OSSの構成

... (3)

... (4)

... (5)

(3)式は、受聴者の自由音場正面入射頭部伝達関数の補正を作用する目的を持ちます。OSS Networkのこの係数によって、 HATSで原音場を収録した時に音源がHATSの正面方向に位置していたとすると、正確に受聴者の正面方向の頭部伝達関数が再現されることになります。 (4)式は、クロストーク・キャンセルを、また(5)式は逆伝達関数による補正をそれぞれ作用する目的を持ちます。HATS収録の音源を入力信号とし、これらの係数を用いたOSS Network処理を行えば、原音場と同じ受聴状態が再現されることになります。図-6にこれらの係数の例を示します。


図-6 OSS Network係数の例

つぎに、これらの式の導出について考えてみたいと思います。 2つの再生用ラウドスピーカから受聴者の両耳までを因果で安定な線形時不変システムとみなせば、 左右のラウドスピーカそれぞれにL、Rが入力され、受聴者の両耳の鼓膜上の音圧がPL、PRであるとすると、

... (6)

となります。これをマトリクス表示すると、

P=H・X ... (7)

ただし、

とします。理想的なOSS再生状態を得るために、つまり左右それぞれのラウドスピーカの入力を、受聴者の左右の耳それぞれへ伝送するには、 Hが正則であると仮定して、

P = H・H-1・X = E・X = X ... (8)

のような逆マトリクスH-1に対応する前置フィルタ処理を行えば良いことになります。ただしEは、単位行列です。 H-1は、

... (9)

となります。ここで、

... (10)

とおくと、

... (11)

さらに、

... (12)

とおくと、H-1は最終的に、

... (13)

となります。この式がOSS Networkを与える基本的な構成式になります。 このH-1に受聴者の自由音場正面入射頭部伝達関数の補正項であるEL、ERを付け加えた、

... (14)

が、図-5のOSS Networkを与える構成式となります。
実際には、このように設計されたOSS Networkの係数を、DSP(Digital Signal Processor)を用いたハードウェアにFIRフィルタの係数データとして与え、 リアルタイムにHATSで収録した音に対してフィルタリングを行ないながら再生します。

5. OSSの応用

本稿の冒頭でも触れたように、OSSは人間と音との関係を調べるためのツールとして発展してきました。その応用は多岐にわたり、

  • コンサートホール、レコーディングスタジオなどの音場設計・評価法の研究
  • 自動車の車室内ほか騒音なども含めた各種の音場の測定や評価、シミュレーション
  • 音響機器の統一的な測定や評価

などが考えられます。

すでにOSSを用いたコンサートホールにおける研究の報告がいくつかなされています[7]-[9]。 また、レコーディングスタジオのコントロールルームにおける音像定位に関する報告もされています[10]。 これらの研究においては、OSSの持つツールとしての機能を活かし、物理量の測定と聴感実験のための音場の収録や、 その音源を用いた聴感実験が効率良くなされています。
近年、音響物理量の測定に関して、より人間の聴覚現象を考慮した測定方法の確立の必要性が議論されており[11]、 これまでの音響物理量の測定に加えて、HATS収録の音源やHATSを用いて測定した音場のインパルス応答などからの物理量の算出による音場の解析が重要になってくると思われます。 弊社の実際の施工現場においても、施工段階ごとにHATS収録を行うなどの試みや、施工現場だけでなく、 様々な音場でのHATSを用いたインパルス応答の測定を行っています。測定データの分析等に関して多くの検討の余地が残されていますが、 これらのデータを用いた物理量の解析結果と、聴感実験の結果との検討により、より人間の聴感に近い音響測定の実施と、 その結果の設計・施工の現場へのフィードバックを行いたいと考えています。
一方、当社の製品の中に、音感トレーニングを行うためのツールとして開発された「真耳」と言う名称のシステムがあります。 このシステムでは被験者に呈示する音源の取り込み、加工、呈示する順序、 呈示時間および呈示間隔の設定や複数の被験者の応答の集計などを行うことができます。 現在、これらの機能に、被験者の応答の統計処理を行う機能などを拡張する作業を行っています。 この機能拡張された真耳とOSSとを用いることにより、音場での収録から聴感実験まで効率的に作業を行うことができると考えられます。

また、OSSの立体音場再生システムとしての機能に着目すると、

  • 音響分野における仮想現実感の提供
  • アミューズメント施設・イベント会場などにおける音響効果の提供
  • CD、LD、テレビ・ラジオおよび通信などの様々なメディアにおける新たな録音・再生方式の構築

などの3-D Audio systemとしての応用が可能であると考えられます[12]-[14]。 当社においても、イベント会場において立体音響効果を得るための音源の作成、家庭用テレビゲームの効果音作成、 モータースポーツの音源を用いたCDの作成等の作業に携わらせていただきました。この3-D Audio systemを実現するためには、

1) ダミーヘッドマイクロホンを用いた音源の収音、または、HRTFを用いて電気的に両耳信号を合成して音源を作成する。
2) 伝送、記録および再生
3) ヘッドホンあるいはラウドスピーカを用いた音場の再生

などの技術を確立する必要があると考えられます[12]。不特定多数の受聴者が対象となることなどから課題が山積していますが、 これら技術の確立のために、収録、伝送および再生までの系全体の評価指標の確立、より効率的で精度の高い音場シミュレーションアルゴリズムの検討、 ダミーヘッドマイクロホンを用いた現場収録におけるノウハウの蓄積などを今後行っていきたいと考えています。

6. おわりに

OSSに関して、その原理、概要から応用まで述べさせていただきました。
音の分野に限らず、様々な技術の進歩はめざましいものがあり、その範囲もますます拡大しています。 それに伴い音響技術者に対して要求される知識や技術力はハード、ソフト、信号処理技術から生理学、心理学に至るまで広範な分野にわたっています。 これらの多くの課題を一つ一つ解決・吸収し、しかし生の音の大切さを忘れずにサウンドエンジニアとしての仕事を行いたいと思います。 そして我々はこのOSSの技術を応用、拡張して様々なチャレンジを行なっていきたいと考えています。

【参考文献】

[1] 三浦種敏、"ダミーヘッドを用いた測定," 日本音響学会誌 46, pp633-634 (1990)
[2] 浜田晴夫、"基準的収音・再生を目的としたOrthostereophonic Systemの構成," 日本音響学会誌 39, pp337-348 (1983)
[3] H.Hamada, N.Ikeshoji, Y.Ogura and T. Miura,"Relation between physical characteristics of Orthostereophonic System and horizontal plane localization," J.Acoust. Soc. Jpn. (E) 6, pp143-154 (1985)
[4] 水内崇行、岡部 馨、浜田晴夫、三浦種敏、"標準HATSを用いたOSSの検討 その2," 音 講論集 1-5-19, pp723-724 (1988.3)
[5] 岡部 馨、"基準的音響伝送系Orthostereophonic (OSS) の確立に関する研究," 東京電機大学博士論文 (1989)
[6] 岡部 馨、三浦種敏、"基準的音響伝送系OSSのためのHATS構成," 日本音響学会誌 46, pp885-892 (1990)
[7] 岡部 馨、"ダミーヘッドを用いた音場再生," 日本音響学会誌 46, pp650-656 (1990)
[8] 岡部 馨、中山 剛、下平美奈子、吉田 実、浜田晴夫、三浦種敏、"OSSとその応用," 信学技報 EA 92-6, pp33-40 (1992)
[9] 岡部 馨、"バイノーラル技術を用いた測定," 日本音響学会誌 49, pp123-128 (1993)
[10] 下平美奈子、酒井真雄、園田香織、岡部 馨、浜田晴夫、三浦種敏、"コントロール・ルームにおける音像定位に関する基礎検討 ~OSSを用いた聴感試験の結果について~," 音講論集 2-4-6, pp723-724 (1992.3)
[11] K.Genuit and J.Blauert、 "Evaluation of sound environment from the viewpoint of binaural tec hnology," Proc. ASJ Int. Symp. in OSAKA pp27-32 (1992) (森本政之訳、"バイノーラル技術を用いた音環境の評価," Proc. ASJ Int. Symp. in OSAKA pp33-37 (1992)).
[12] 浜田晴夫、"バイノーラル音場再生系について," 日本音響学会誌 48, pp250-257 (1992)
[13] D. R. Begault、 "Challenges to the Successful Implementation of 3-D Sound," J.Audio Eng. Soc.、39, pp864-870 (1991)
[14] 小泉宣夫、島田正治、青木茂明、"通信系における音響環境設計技術の展開," 信学技報 EA 92-1, pp1-8 (1992)