1. はじめに
昔話で恐縮ですが、現在の日本音響エンジニアリング株式会社は創業から五十数年経っていて、途中2回ほど会社名が変わっています。設立時は、株式会社ニチオン、次が日東紡音響エンジニアリング株式会社、そして現在の会社名となっています。最近の社員は昔の会社名など知るはずもないし、今の自分の会社や担当業務がどのような月日の経過をたどり、継続できてきたのかを知らないのも無理はありません。
実は筆者はニチオン時代から50年以上在籍し続け今も業務の一部を担当しているDL ~データサイエンス事業部出身の古株です。今回、技術News「DL ~データサイエンス事業部の昔話」として、現在の事業部の礎がいかにして築かれたのか、全3回にわたりその歴史を紐解いてみたいと思います。今回はその第1回、事業部の成り立ちから黎明期のシステム開発のお話です。
2. ニチオン設立当時の様子
2.1. 設計事務所からのスタート
開私が入社したのが1972年4月...今から54年前です。当時ニチオンという会社は、私を含め僅か7名の設計事務所でした。 ニチオンの主な業務は、大学教授やNHK研究所の先生方が音響設計されたホールや録音スタジオなどの計画をゼネコン下で実際に施工図をおこし工事する内装設計&工事業者でした。現場の実際は3Kそのもので、壮絶な毎日を過ごし一つの現場が完成しても早速次の現場が始まる。こんな昭和の当時は一般的なゼネコン工事現場のスローガン「せめて日曜日ぐらい休もう!」がそのすべてを物語っています。当然ゼネコン下で仕事している我々は...推して知るべし(もっと酷かったかも)です。忙しい忙しいで仕事に追われ、一年経ってみて我々ふと思うことは「きっと来年も同じことをやって...ずっとこれの繰り返しで一生終わってしまうのかな!」でした。仕事が増えればそれに対応して人も増やせますが、反対に仕事が減っても人は減らせないので社員のギャラが減る訳です。厳しい現実に直面し「音響工事という限られたパイの中でどのように食いつないでいくのか!?」の課題を常に抱えていました。
当時の社長であった茂田氏は、この難関な課題を解決する一つの作戦として、結構な額の音響測定器を揃え、私に音響測定を託してくれました。いきなり完璧にはできないが当初の目的は、せめて出来上がった音響建築物の音響性能だけでも自分で測定したい。茂田氏の作戦というのは、将来的には音響設計&仕様と完成物件での実測性能の比較データを集め自社の設計にフィードバックし、より実践的な音響設計に持ち込む、いわゆる競合他社との差別化を目論んだものでした。
2.2. まずは道路騒音測定から
まず著名な大学の音響研究室や音響コンサルティング事務所の扉を叩き指導いただいたことからがスタートでした。その当時の騒音測定は主に問題になっていた道路騒音が対象で、現状把握や対策で設置した防音塀の効果測定などが主な仕事でした。騒音計とレベルレコーダーにより記録された騒音レベル波形の変動記録から、人間が5秒ごとにサンプルして統計処理(50回法という)を行う作業で、騒音レベルだけでなくオクターブ分析ごとの50回法という気の遠くなるような依頼も珍しくありませんでした。このような苦労に取り組みつつ、これらを効率化することを常に考えていました。
2.3. 騒音測定から建築音響測定へ
当時のゼネコン各社の技術研究所では建築音響関連の研究開発が盛んで互いに他社との差別化を目的に競い合っていました。ところがそんな競争の激しい時代であっても、駆け出しの若者に対して時間を割いてでも親切に建築音響測定のイロハを教えていただくことができたのです。おまけにゼネコン現場からその研究所に依頼が舞い込んできた案件(主に騒音測定)を担当させていただき、貴重な実務経験をさせていただきました。又、ゼネコン研究所では、現場案件だけでなく研究テーマに従った実験(室内音響性能の測定や予測、模型実験)の多くで音響設計&測定に関する経験値を積み重ねることができました。
2.4. 茂田社長の作戦はうまくいったのか?
建築音響業界の先輩方にその多くをお教えいただいている間に月日も経ち社名も日東紡音響エンジニアリング株式会社に代わり、建築音響施工事例や完成時の音響実測値の件数を積み重ねることができました。結論からいくと設計~施工図作成~現場管理~音響測定のサイクルがうまく回りだしたのです。音響工事に対する経験値(音響測定データは勿論のことユーザーの口コミ評価など)が上がることでユーザーからの直接受注も増えて、音響工事業という括りでは安定した業績が維持することができるようになりました。茂田社長の作戦はめでたく本懐を遂げたといえましょう。
2.5. 騒音(音響)測定業を立ち上げる話
音響工事業として会社がうまく廻りだし、頼りになる大黒柱ができました。一方、限られた音響工事のパイはそれほど大きくはない時代でもあったので、一本の大黒柱だけでは年々変化する社会状況に対し会社も安定しないし社員も増えません。そこで次の作戦として、音響測定専門部門を作ろうということになりました。丁度、国の定めた計量法の中に、濃度、騒音に関して環境計量士制度が1974年に定められました。計量証明事業所の下で環境計量士が測定した値は公のデータになるということで、道路騒音測定業者もその資格を持てば競合他社に対し有利になるはずでした。1975年に第一回環境計量士試験が実施されましたが、濃度と騒音との区別がなかったので騒音の実務者が試験に合格するには、化学式を主に勉強せざるを得ないハードルのかなり高い試験で、大気、濃度測定をする化学系のコンサル会社が有利でした。こんな逆風の中、1976年に第二回環境計量士試験に合格し、計量証明事業所の登録を済ませ、化学系のコンサル会社とは異なる、今までの経験を活かした「建築音響や騒音対策の測定&コンサルティング事業部」を立ち上げました。
3. 航空機騒音測定への発展
前節での道路(環境)騒音測定の50回法による気の遠くなる手作業のニーズに対し人海戦術で対処していた課題を何とかしたい。手始めに統計処理部分を当時流行しだした8ビットマイコンを用いたプログラミングを勉強(アセンブラ言語)し、50回法統計処理装置を自作し効率化が図れました。また、時代の流れと共に16bitパソコンも手に届く価格になってきていて国産のPC9801シリーズのN88-BASIC言語を使うことで通常の音響測定に対処できる技術が蓄積されていきました。
3.1. 1978年5月20日 成田空港開港
その当時、コンサルティング事業部では、成田空港ターミナルビル内の建築物の宿直室や機械室の騒音・振動問題の測定や対策設計施工の件で現場に出入りしていましたが、航空機騒音測定の話は我々には来ていませんでした。内陸に位置する国際空港の当時の運用航空機は、DC-8、B-707、B-727など凄まじい騒音を発生するものばかりで現在の航空機のものとは隔世の感がありました。開港に際し当初より千葉県大気保全課により航空機騒音に対する環境基準の達成状況を把握することを目的とし実態調査が行われていました。調査の概要は以下の通りです。
調査日程 夏、冬 各一週間連続
調査時間 6:00 ~ 23:00
測定点数 数十地点
使用機材 騒音計+レベルレコーダー
評 価 値 WECPNL
当時のWECPNLの測定は騒音計とレベルレコーダーの傍に人間が張り付き記録紙に測定状況を書き込むという作業の連続で、早朝から深夜まで連日繰り返し行うその苦労は想像を絶するものがありました。当時、成田空港周辺にある共同利用施設に十数人の社員が、お葬式の祭壇が置かれている部屋に布団を持ち込んで寝泊まりし、現場での張り付きはもちろん、人員交代の送り迎えやお昼のお弁当配りを兼ねた巡回作業(当時はコンビニなどない)のため、昼夜交代制で測定に臨んだことが昨日のことのように思い出されます。さらにはここで収集された大量の記録紙を持ち帰り、山のように積み上げられた記録紙から、複数の記録紙を取り出して机上に並べ、それぞれでの騒音レベルの変動を時系列に並べて、航空機騒音の最大騒音レベルと発生時刻を1つ1つ手で拾い出していく、気の遠くなるような作業が昼夜問わず続く状況でした。
3.2. 航空機騒音測定の省力化の提案
千葉県の担当者から成田空港周辺実態調査の話をいただき、現地見学にお邪魔した時に担当者のご苦労を感じ、人海戦術による測定ではなく自動測定器の必要性を訴えました。当時の大気や水質の自動測定器は大手の電機メーカーのものが主流で、中央に大型コンピュータを設置し、測定点のセンサーをテレメーターで相互接続し運用するものが主でした。この方式で航空機騒音測定システムを構築すると、設置、維持、運用の費用はとてつもないものとなります。聞くところによると測定点3、4か所の構築費だけで2億円から3億円の見積もりだったそうです。これではシステムの導入は現実的ではないため、人海戦術を繰り返しているのが現状とのことでした。これに対する代替として、我々はパソコンを中心とした航空機騒音測定に特化した自動測定器を組み上げる提案を行いました。その当時の概算で費用は1/20程でした。千葉県の担当者は、その提案に興味を示し仮設で組み上げたシステムの試験稼働場所を提供していただきました。当初の仮設システムは、騒音計+A/Dコンバータを組み込んだパソコン+フロッピーディスク(騒音計のマイクロホンは建屋の屋根上まで延長)、念のためレベルレコーダーも併設し測定値の相互確認もできるようにしました。
3.3. 航空機騒音自動測定システムDL1420の開発
試験稼働中に現場で起こる様々なトラブルを経験しそれらに対処しながら、我々は「安価で安定したシステム」の完成を目指しました。自動測定器の実用化にはコストと耐久性が最大の課題です。そこで私たちは当時の常識を覆すようなハードウェアの改造、今風にいえば「魔改造」を行いました。この改造には分解したパソコンや各種機器を確実につなぎ合わせる高度な配線技術が不可欠でした。そこで複数のケーブルを束ねて機器内部に組み込む「ハーネス実装」の経験が豊富な業者を探し回り、協力業者として腕利きの技術者たちを巻き込み、NECの最新型パソコン「PC9801E」を分解。なんと余計な部品を取り外し、バッテリーバックアップが可能な電源を接続するという荒業に出たのです。さらに外付けでモノクロモニター、ROM/RAMカード、5インチフロッピーディスクドライブ、プリンタ等を接続し、これらを一つのラックに収めました。ちなみに、このシステムの名称「DL1420」は、ラックマウントした際の高さ寸法が1420mmだったから、という単純明快な理由で命名されました。
ソフトウェアはN88-BASICを使用し、NOEの若手技術者がプログラミングを行いました。そのロジックは、騒音が設定した閾値を超え、かつ一定時間継続した場合に「航空機騒音」とみなすというもので、最大騒音レベルと時刻を記録する仕組みです。このラインナップで、24時間、365日の連続運転に耐えられる目途がつきました。
このような経緯を経て、1985年( 昭和60年)、ついにDL1420の基本形が完成し、成田空港周辺6地点の常時監視システムとして採用されました。

しかし、これで全てが解決したわけではありません。運用開始後、現場では想定外のトラブルが様々発生しました。測定器は一般の方が立ち入る場所に置かれることが多かったため、例えば測定器の電源コンセントが抜かれていつのまにか停止していたといった人的要因のものはよくありました。また夏場の過酷な暑さによるパソコンの『熱暴走』や、落雷による『ノイズ』といった自然要因などが多々あり、そのたびに改善を繰り返しました。またシステム起因のトラブルとして、RAMにある程度データが書き込まれると、なぜか原因不明の文字化けを起こすトラブルが発生したのです。我々はこの問題を解決するため、月に1回の頻度で全測定地点を車で巡回するという泥臭い作業を余儀なくされました。現場に到着するとまずはお掃除です。こういった機械は普段人気のない共同利用施設の室内や、ほぼ屋外といった倉庫やガレージといった場所にも置かれますので土埃が溜まります。5インチフロッピーディスクドライブのクリーニングを行い、当日のデータと設定ファイルをフロッピーディスクにコピーして退避させ、その場でRAMをフォーマットし、再びフロッピーからデータを戻す。この地道なメンテナンス作業を繰り返すことで、ようやく24時間、365日の連続運転を支えていたのです。
3.4. 保守サービスの発想
これらの泥臭い現場作業を繰り返す中で、我々は一つの重要な真理にたどり着きました。それは、「測定器は売って設置したら終わりではない」ということです。過酷な環境下でも機械が正確に動作し続け、お客様が本当に必要としている『正確な測定データ』を安定して提供すること。つまり単なる機械の提供にとどまらず、その機械が生み出す"データにまで責任を持つ"姿勢が必要不可欠だったのです。これはまさに、NOEが音響工事業で培ってきた「責任施工」の精神に通ずるものでした。この信念を形にするため、我々は機械の正常稼働と測定データの精度を維持することを目的とした「保守点検サービス」を本格的に開始しました。測定器自身が100V給電停止を知らせるヘルプコールサービスもこの一環です。現場でのトラブル対応と苦労から生まれたこのサービスは、お客様からの高い信頼を得て、現在でもデータサイエンス事業部を支える強固な柱へと成長しています。
3.5. データ処理システムと可搬型DL-80への展開
現場の測定器(子局)ができれば、次は集めたデータを処理する親局のシステムが必要です。データ処理システムには、当時憧れのエンジニアリングワークステーション「HP9000シリーズ」を採用しました。データ処理ソフトウェアはすべてHP-BASICを用いて自主開発し、時間差照合、運航実績との照合、WECPNLの算出、そして日報・月報・年報の作成までを一貫して行えるようにしました。当初はオフライン運用だったため、現場から回収してきたフロッピーディスクを読み込ませる作業でしたが、1987年にオンライン化されてからは、1日1回のデータ自動回収が可能となり、飛躍的に利便性が向上しました。
常時監視を行うDL1420と親局であるデータ処理システムによる運用が軌道に乗ると、今度は「任意の場所に数日間だけ持ち込んで測りたい」という機動的な移動測定のニーズが急増しました。これに応えるべく、我々は装置の大幅な小型化に取り組み、1988年に可搬型測定器「DL-80/PT」を完成させました。この「可搬型」を実現する上で最大のハードルとなったのが、車での運搬時の激しい振動や、現場の過酷な環境に耐えうる「堅牢性」です。我々はこの外装として、「ショックストップ(Shock Stop)」という非常に強靭なケースを採用することに強くこだわりました。しかし、このケースには一つ厄介な問題がありました。成形の都合上、ケースごとに内寸が微妙にばらばらだったのです。普通であれば、クッション材を入れるなど多少の隙間は妥協して設計するところですが、ここで我々を助けてくれたのが、社内の横のつながりでした。マイクロホントラバースなどの設計製作を手掛ける部門から非常に腕の立つ協力業者の職人を紹介してもらうことができたのです。ミリ以下の精度に徹底的にこだわるその職人は、それぞれのケースが持つ微妙な個体差を正確に採寸し、それに合わせてアルミ板を1枚1枚手作業で加工し、ケース内に一寸の隙間もできないように見事に組み上げてみせました。測定部門のアイデアと、社内で培ってきた職人ネットワーク。まさに部署の垣根を越えたNOEの協力体制が、この妥協なき完璧な筐体作りを実現させたのです。
名称の「80」は、搭載した名機と呼ばれるCPU「Z80」に由来します。データの読み取りや集計ソフトウェアもMS-DOS上で自主開発しました。最大の特徴は、現場でプログラムカードを差し替えるだけで、航空機のみならず道路や新幹線といった異なる騒音源にも即座に対応できる点です。職人の魂とNOEの総合力が込められたこの機動力の高いシステムは、その後、全国のあらゆる測定現場を駆け回ることになります。

3.6. 騒音コンター図作成とビデオデッキの活躍
この時期の特筆すべきエピソードとして、騒音予測の基礎データ作成のための実地調査があります。我々は航跡測定のために「Peep(DL-PP101)」という、人が雲台に取り付けられた望遠鏡越しに航空機を捉え、その方位と仰角を記録させる装置を完成させ、成田空港周辺で航跡測定と周波数分析を何度も重ねて実施しました。

特に記憶に残っているのは、成田市役所の屋上や、成田空港北側の田んぼのあぜ道での泊まり込み調査です。当時の機材の制約上、長時間にわたって高音質で音を記録するために我々が目を付けたのは、なんと家庭用の「Hi-Fiビデオデッキ」でした。ビデオテープであれば、3倍速モードを使用することで最長6時間もの連続録音が可能だったからです。とはいえ、6時間ごとにテープは尽きてしまいます。我々は夜通し起きて測定地点を車で巡回し、ビデオテープを交換して回らなければなりませんでした。真っ暗な田んぼのあぜ道で懐中電灯を頼りに機材を操作し、ふと見上げた夜空の星と、そこに重なるように降下してくる巨大な航空機の灯りと轟音。あの時の圧倒的な情景は、過酷な体力勝負であった記憶とともに今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。こうして泥まみれになりながら持ち帰った膨大なアナログデータは、当時のHPマシンで波形化するプログラムを自作して分析を重ねられ、最終的に成田空港周辺の緻密な騒音コンター図(等騒音線図)の作成へと結実したのです。
3.7. 航空機騒音識別装置への挑戦と革新
測定の自動化が進むにつれ、次に立ちはだかった壁は「その音が本当に航空機なのか?」という識別の精度でした。そこで1987年(昭和62年)、私たちは航空機が発する「トランスポンダ応答信号」に着目しました。この電波の受信感度と、信号に含まれる様々な情報から、騒音発生時にそれが航空機によるものかを自動判定する装置を開発したのです。これは、ICを組み合わせてハードウェアレベルで信号を処理する自作の装置でした。この技術は業務を拡大する革新的な発明となり、1992年(平成4年)7月には特許を取得しました。当時の自作基板SSR-A(第一世代基板)、SSR-B(第二世代基板)、続いてSSR-C基板も登場し、現在はオールデジタル化したSSR-D基板が活躍中で、現在のデータサイエンス事業部における航空機騒音識別装置の基本型として、そのDNAは脈々と受け継がれています。

4. 最後に
当初は「せめて出来上がった音響性能だけでも自分で測定したい」という思いから始まったNOEの測定技術開発。手作りの50回法統計処理装置から始まった我々の挑戦は、DL1420シリーズを経て、成田空港周辺の51地点、さらには羽田、百里、下総、木更津といった各空港・基地周辺へと広がり、その後に開発された可搬型DL-80/PT も19台稼働する規模へと成長しました。3Kといわれた現場の苦労を、技術と工夫で乗り越えようとしたあの頃の熱気。それが現在のデータサイエンス事業部の礎となっているのです。今回、昔話をさせていただきましたが、この「現場を知り、課題を設定し、世の中にないものは自ら作る」という精神が、若い世代にも形を変えて受け継がれていくことを願っています。
さて、開発史はまだ序章に過ぎません。ハードウェア基盤を確立した我々の次なる挑戦は、単に音を測るだけでなく、航空機の動きそのものをより詳細に捉えることでした。次回、「NOEの技術開発史 その5」では、音の到来方向や電波情報の活用など「空の動き」を捉える技術への挑戦、そして時代の変化と共にシステムがどのように進化していったのか、その道程についてお話しします。(続く)
