エッセイ(私の夢)

私の夢 前川 純一
幸いよい天気で、空には、春を待ちかねたようなひばりのさえずりが、 はじけるように上がったり下がったりしていた。幅3メートルぐらいの小川に沿った一本道である。 川の水は実にきれいで、今どき、こんな川がまだあったのかと、不思議な気持がしたものである。

ク、ク、ク、ク、と言う鶏の声に目を上げると、行く手に大きな黒い門があって、 その門の出たあたりに、いち羽の逞しい雄鶏を中心に、五六羽の雄鳥が、土を掻いて餌を拾っていた。 何か、非常に珍しいものを見た思いで、私は立ち止まった。鶏の群れの向こうから、同時に、 私の目にとびこんで来たのは門の中にひろがる菜種畑の黄色である。かくも鮮烈に黄色が脳の中にまで飛び込んできたということは、 一体、どういうことであろう。

そんなことを思いながら、大きな黒い門をはいると、いきなり右手の小屋から、小さな巡査が二人飛び出してきた。 ぱっと直立不動の姿勢を取ると、さっと挙手の敬礼をした。勿論、本物の巡査ではない。巡査のような服を着せてもらい、 ヘルメットをかぶせてもらい、警棒らしきものをぶらさげてはいるが、二人とも、いわゆるダウン症候群といわれる知恵おくれの子らである。 もうおとなだろうが、十四、五才ぐらいにしか見えない。

「村長さんは」ときくと、こっくりとうなずいて、だまって一人が先に立って歩きだしたので、 その後について歩きだした。左へ折れて少し行くと、大きな、がっしりとした藁屋根の家の前に出た。 入り口の紙障子に「茗荷村役場」と、かすれた大きな字で書いてある。上手ではないが、こだわりのない風格のある字だ。

「これ、村長さんが書いた、下手くそ」巡査はにやっと私の顔を見て笑うと、 障子を勢いよくあけて怒鳴った。「村長さん、お客さん」

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これは、ご存じの方もあるだろう、映画にもなった田村一二氏の「茗荷村見聞記」 1)第一章の初めの部分の勝手な抜粋である。第二章から、もうすこし続けよう。

天窓のま下の大きな机のまわりに、五人の、それは、はっきりと重度の知恵おくれとわかる男の子が粘土細工をしていた。 ちょっとみると、子どものように見えるが、よく見ると、それはみな大人になっているであろうと思われた。 一々大人だとか子どもだとか、書くのは面倒なので、以下、子どもたちと書くことにする。 ここでは、世間のように年齢を気にすることは余りないのである。

その子どもたちが、粘土を叩いたり、ちぎったり、のばしたり、積み上げたりしている。 どの顔も、まことにもって楽しそうである。中には喜びに耐えかねて、奇声を発している者もいる。 こんなに嬉しそうに仕事をしている工場がどこにあるだろうか。

これは、仕事であって同時に遊びである。どうして仕事が遊びになるのか。 それは彼らが、人並みの知恵を貰って生まれて来なかったおかげである。いっちょう、うまいこと作ってほめてもらおうという気もなく、 粘土の感触に陶酔し、無垢の心象を粘土に託して、自在にひねり、無心につぶやき、笑い、遊ぶ。

後で、棚の上の、この子らの作品に接した時、ほっとした安堵のような気持を覚えたのは、 遊戯を通して現出した、太古の大らかさに、触れ得たせいかもしれない。

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ところが、この四月思いがけなく一通のファックスが届いた。道路騒音等の研究家のデンマークのKragh氏からである。 Inter-Noise94で初めて日本に行くが、Echologicafarmを紹介して欲しい。と言うのである。

実は、シドニーのInter-Noise91でバンケットのとき偶然同じテーブルに座り合わせ、 彼がコペンハーゲン近傍のCommuneで生活していると話すものだから、学生時代に奈良県の一共同部落で一泊体験をしたが、 そこでは、奥さんと箸箱?以外に私物を持たない、というような話をしたことを思い出した。

そこで、あちこち尋ねたが、四十年も昔のことで様変わり、やっと「自然生活」という雑誌を編集してられる 「野草社」の石垣雅設さんなら、と教えてくれる人があって、おたずねしてこの本を教わり、 そして、この夢を現実に実行している滋賀県の大萩茖荷村を紹介して頂いたのである。

9月3日、東京からの彼と京都で落ち合い、名神高速バスで百済寺で降りると、茖荷村の仲本氏が、 車で迎えに来てくだっさていた。まだ二十才代の青年である。

全くの田舎道を四五分走ったところで、手を上げていた年配の人がドアをあけるなり、 "Good morning"といって乗ってきた。午後だけれど何度も何度も"Good morning"の連発である。 ちょっと変だなと思ったら、仲本氏が目配せ、あとでやはり障害があるとのことだった。

20分位で(40×60)m^2位の村の広場に到着、その周辺には古い農家と寮のような建物が並んでいるが、 "見聞記"第十五章と同じ「研究所」と看板の上がっている一番奥の建物に案内された。

この村は、鈴鹿山系山麓で20年近く前、過疎と台風災害のため集団離村のあった跡地に、 10年前に高城健輔氏が、障害児三人を含む十一人で入居され、自然の動植物のように人と人が互いに支えあう自然生活を目標に、 自給自足の有機農業を初め、畑の肥料は必要な数だけに抑さえた平飼いの養鶏で、障害者との共同生活の中に、 人間の欲望で汚染された地球を、温かい眼差しや優しい思いの触れ合いで洗い流して、 本来の人間らしい愛に生きることを学ぼうと開村された。現在では60人余りの障害者、孤児、身寄りのない老人と、 村の思想を実践して学ぶ人が共同生活をして居る。

2)御茶を頂きながらお話を聞き、一周り村を見て回った後、何日か滞在するというKragh氏を置いて失礼した。

高速バスに乗ったときには、全く暫し夢の国に居た様な気がした。 このような夢を実践して居る人々が世界のあちこちに実在すること、 そして、我々と同じ音響をやっている人がそこに居ると言うことを知って、 胸まで熱くなったこの暑い夏の一日だった。(1994-12-29)

【前川 純一氏】
1925年生まれ。京都大学工学部建築学科卒、工学博士。 神戸大学教授、日本音響学会、日本騒音制御工学会、各副会長等を歴任。 現在、神戸大学名誉教授、前川純一環境音響研究所を主宰。

文 献;
1) 田村一二 「茗荷村見聞記」(1971初版 北大路書房、Tel.075-431-0361)
2) 「もうひとつの日本地図-いのちのネットワーク-」、「自然生活」編集部編 (野草社 1992)