エッセイ(私の夢)

私の夢 佐々木 實

1.まえがき

生まれてから人は自分の人生の時間を順に歩み、こなしてゆくが、時間の刻みは全ての人に対して共通である。 また時間は人に対するばかりでなく、大自然そのものに対してもその経過の仕方は等しい。 勿論この話は相対性理論によると正しくないが、我々が生活する周囲の身近な現象としては殆ど正しい。 しかしこれは物理的時間経過であって、心理的時間経過になると個人により、また時と場合によりかなりの違いが出てくる。 その違いの原因の一つとして各個人が持っている「夢」の違いがあるのではなかろうかと、 この題をもらった時から考えるようになった。「夢を追う」とか「夢を抱く」また「夢を諦める」などあるが、 追うのか、抱くのか、あるいは諦めるのかで夢に対する気持ちが違い、 そこにその人が日常生活で感じる時間経過に様々な相違が生ずるのではないかと思われる。 人が静かに、落ち着いて生きるためには先ず時間経過の感じ方が安定していることが大切であろう。 そのためには「安定した夢」を抱くことが人生で大事なのではないかと思う。

2.動物の言語に対する想像

こんな専門外のことを書くのに気が引けるのは勿論であるが、人間と動物を区別することの一つに、 人間は言葉を持っていて動物はそれを持たないという話を聞いたこともあるし、読んだこともある。 動物学者と言語学者の共同研究でこの結論が出たとしたら従わざるを得ないが、どうもそうではなさそうである。 何といい加減なことを言うものであるかと思う。動物が人間と同じような言葉のやり取りをしているかどうか、 そんなことは知る由もないではないか。むしろ同じ種類の動物であれば、世界中で同じ言葉を使っているかも知れないのだ。

蟻は何時も何匹かがそこら中を偵察していて、甘いもの、美味しいものがあれば、 仲間に知らせて列をなして巣に運ぶ、そして行列で仲間とすれ違う時、触角を交差させ合って何か合図をしているように見える。 その時、人間の言葉よりもはるかに明快な文法で言葉を交わしているかもしれないのだ。また蜂の話もある。 ある働き蜂が蜜のたっぷりある花を見つけると、巣に帰って8の字に動きまわり(駄洒落ではない)、 字の或る軸で仲間に蜜の方向を教えるという話をテレビで見たことがある。 これは言語を持たないから動作だけで伝えているのかも知れないが、彼らは言葉に加えて補助動作をしているのかも知れない。 そこで羨ましく思うのは同じ種の蜜蜂であれば、世界中同じ動作と言葉であろうと思われることである。 先の蟻の場合もそうではなかろうか。そして蜜蜂にしても蟻にしても地球上で、 多少違っても同じ共通言語を持っているのではなかろうかと思えてならない。

また、私は猫が好きなので、昔からわが家にいつも猫一匹は居た。時には雌猫が家で子を産み、 引き連れて外を散歩?することもある。ある時、親猫が近所の横断歩道で青信号で渡る人間達に従って渡ったが、 子猫は渡るタイミングを失い、渡れないでいるのを親猫が何やら盛んに声をかけて呼び、渡らせたのを目撃した。 これは彼らにはっきりした文法の猫語があると思わざるを得ない。日本の猫とイタリーの猫が出会った時、 人間よりもスムーズに言葉のやり取りをしているかも知れない。お互いに太陽の恵みを賛美して「おお、それ見よ」とやっていたりして。 そして知能の発達したイルカ、人間に近いと言われているチンパンジー、マントひひなどは、 各々の種で世界中何処で出会っても話が出来るのではなかろうか。

3.民族をこえてミサ曲を歌う

私が現在、福岡で指揮・指導をしている混声合唱団がある。カトリック教会を練習場にお借りしている関係上、 毎年クリスマスイヴにはにわか聖歌隊となってクリスマスミサのお手伝いに一連のクリスマスの歌を式次第に合わせて歌うことになっている。 その中で EdwardoMarzo作曲のミサ8番を歌うが、クリスマスが近づいたある時、音響学会の懇親会でもご紹介したことのある、 ポーランド、ミキエヴィッツ大学、音響研究会の Edward Ozimek教授の芸工大訪問日とコーラスの練習日が重なったので、 夕方からのミサ曲の練習に一緒に加わって頂いた。楽譜を渡しベースパートを歌って頂いたが、彼自身が熱心なカトリック信者であるのと、 ミサ曲の歌詞は世界共通のラテン語の定型歌詞なので、すぐに皆と打ち溶けて大いに合唱を楽しんで頂いた。

これは将に民族間で共通の言語を持つことの素晴らしさであろうと、楽しくもあり、また考えさせられもした経験であった。 一回の練習であったにもかかわらず、メンバーとすっかり親しくなり、英語が少しでも出来る人は話をしたが、 それはあまり盛んなやり取りとはいかなかった。しかし、共通の歌詞で歌ったという喜びを分かち合うことが出来た。

4.民族の言語と文化

共通の言語といえば、以前よく話題となり、ある程度の実用もされたものとしてエスペラント語がある。 これについての筆者の知識は殆どないが、歴史は古く、熱心な支持者もいて現在もなお専門の会合を持っているという。 その会合では当然のことながらエスペラント語以外は一切使わないとのことだ。しかし世界的に普及するには至っていない。 その第一の原因は言語による独自の文化を持っていなかったことではなかろうか。

ある言語が関心を持たれるのは、その言語の背景にある文化に関心が持たれているという事であり、 日本の文化は日本語で完全に表現され、フランスの文化はフランス語で、またドイツの文化はドイツ語でこそ表現することが出来るからである。 そして語順が異なるのは思考の順序、順位が異なるためであろう。

わが芸工大の入り口にはかなり贅沢な黒御影石に日本語で九州芸術工科大学と書いた下に英語で KYUSHU INSTITUTE OF DESIGN と書かれている。それを見たあるフランス人のお客さんが、何故、英語だけが書いてあるのか、 フランス人もデザインに対する関心は同じであるのに片手落ちではないかと、これは表示板の言葉に対する見方の完全な相違である。 大学は最も普及した共通語として英語を用いたのに対して、英語民族の文化としてそれを読んだこととの相違であろう。

5.私の夢

私の夢は全ての民族の間で用いることの出来る共通語が欲しいことである。 しかもその共通語は全ての民族の文化を完全に表現出来る言語である。 エスペラント語もそれを願って考え出された言語であるに違いない。しかし今日のように、国際交流、居民族間の交流、 異文化の交換が叫ばれている時代に新たに考え出されたのであれば世界中で強い地位を持つに至ったかもしれない。 現在すでに英語を共通語として挙げる人は多く、とくに日常実用語として、国際集会用語としてこれを用いていこうとの傾向は強い。

大阪大学の難波先生、桑野先生は音環境に対する意識の国際比較の研究を進めておられる。 このご研究の成果はそれぞれの民族が持つ文化や生活意識を表現できる共通語の「発見」、「創造」につながることを期待したい。

日本人の「わび・さび」、フランス人の「エスプリ」、それぞれの民族の「笑い」「怒り」の意識などを完全に表現し、 理解できる共通の言語があると、世界に本当の平和が訪れると思うのだが。

【佐々木 實氏】
1931年生まれ。埼玉大学文理学部卒。 日本音響学会評議員、日本騒音制御工学会副会長、福岡県公害対策審議会委員等を歴任。 工学博士。九州芸術工科大学教授(音響設計学科、学科長)